ショスタコーヴィチってどんな人?


皆さんは、どのようにしてショスタコーヴィチの音楽と出会ったのでしょうか?系統立てて色んな交響曲を聴き漁っている中ででしょうか?それとも、どこかで耳にした名前だということで何となくレコード店で手にしたのでしょうか?あるいは所属しているオーケストラ等で彼の曲をやることになったからでしょうか?たまたまチケットをもらった演奏会のプログラムにあったからでしょうか?

いずれにしても、レコードのライナー・ノート、プログラムの曲目解説、スコアの楽曲分析等で、彼の音楽と生涯について大まかな記述を読まれたことがあるはずです。そこには、旧ソ連の苛酷な政治体制の中で度重なる批判に耐えつつ、作風を猫の目のように変えたり暗号めいた引用を駆使しながら創作活動を続けた、といった旨のことが書かれていたことでしょう。ショスタコーヴィチという作曲家に興味を持たれた方は、さらに彼に関する文献のいくつかを読まれたかもしれません。そこには、まるでソ連の現代史を読んでいると錯覚させられるような政治と音楽との関わりについての記述が、彼の主要作品名の周りに書き連ねられています。そして不思議なことに、いや当然というべきか、そうした社会との関係を無視して彼の音楽を聴いてはいけないような気にさせられてしまう人も多いようです。

とりあえず、彼の生涯を簡単に辿ってみることにしましょう。


ドミートリィ・ドミートリェヴィチ・ショスタコーヴィチは、1906年9月25日、父ドミートリィ・ボレスラーヴォヴィチ、母ソフィヤ・ヴァシーリェヴナの長男として生まれた。姉マリーヤと妹ゾーヤとの3人兄弟であった。父はメンデレーエフが設立した度量衡検査院で働く技師であり、母は音楽院でピアノを専攻したこともあった。ピアノは8歳の誕生日の後、母から手ほどきを受けた。楽譜の読解能力や演奏技術の習得に目覚ましい才能が見られたため(ごく初期の頃から即興演奏をしていた)、そこで彼は普通の学校の他に、グリャッセルの音楽学校にも通い始めることになった。

1919年、彼は姉マリーヤとともにペトログラード音楽院に入学した。そこでピアノをローザノヴァ(後にニコラーエフに代わる)、作曲をシテーインベルクに学んだ。当時音楽院の校長はグラズノーフで、彼はショスタコーヴィチの才能を高く評価し、1922年に父親が急死してから貧困にあえいでいたショスタコーヴィチに対し、奨学金などの便宜を図った。優秀な成績でピアノ科を終了した頃、彼は気管支とリンパ腺の結核に冒され、1923年にクリミヤで転地療養せざるを得なかった。病が回復し、8月にペトログラードに戻ってきたショスタコーヴィチは、家計を助けるために「明るいスクリーン」映画館(後の「バリケード」映画館)で無声映画の伴奏ピアニストとして働き始める。これは、彼に対して肉体的・精神的苦痛を与えた。このような状況の中、彼は作曲科の卒業作品として交響曲第1番ヘ短調 作品10を完成させる。この作品は彼が大学院に進学した1926年春にマリコーの指揮で初演された。初演と同時にこの作品には高い評価が与えられ、彼は一躍“ソヴィエトのモーツァルト”として脚光を浴び、国外でもストコフスキイ、ワルター、クレンペラー、トスカニーニなどの著名指揮者達によって演奏されるようになった。

一方、ピアニストとしては1927年に行なわれた第1回ショパン・コンクールにソヴィエト代表団の一員として参加したが、盲腸炎で体調を崩していたこともあり、思わしい成績を修めることはできなかった(獲得した賞については諸説あるがはっきりしていない)。ちなみに、第一位はレフ・オボーリンであった。その後しばらくすると、彼は自作以外の作品を人前で演奏することがなくなった。

交響曲第1番の後、彼はメイエルホーリドやマヤコーフスキイらと知りあい、様々な劇場との密接な関係を通して演劇や映画の伴奏音楽を書き上げる中で、その前衛的な作風を押し進めていった。1928年に完成した歌劇「鼻」作品15は、その代表的な作品である。当時はスターリンの独裁体制が始まり、第一次五ヶ年計画が実施されるなど、社会主義体制の確立に向けて激動の時期を迎えていた。音楽の世界においても、いわゆるモダニズムは駆逐され、ロシア・プロレタリア音楽家協会(RAPM)が大きな力を持つようになった。RAPMは1932年に解散するが、1934年に作曲家同盟が設立されるとともに“社会主義リアリズム”の名の元に音楽が国家から統制を受けるようになったのである。

歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」作品29が作曲されたのは、社会がこのような動きを見せつつあった1932年のことであった。同年結婚した妻ニーナ・ヴァルザルに献呈されたこの曲は、1934年の初演後国内外で数多く演奏され、大成功をおさめた。しかしながら、1936年1月28日に「音楽のかわりに荒唐無稽」という作品の批判記事が『プラウダ』紙に掲載された(資料コーナーに全文があります)。続く2月6日にはバレエ「明るい小川」作品39に対する批判記事「バレエの偽善」が同紙に掲載され、それに追い討ちをかけた。当時においてこうした批判を公然と受けるということは“人民の敵”と見なされたということであり、それは粛清によって生命を落す可能性にさらされたということでもあった。ショスタコーヴィチは、同じような傾向を持った新作、交響曲第4番ハ短調 作品43の初演を取りやめ、劇音楽や映画音楽で当座をしのいだ。この時期に作曲された作品のいくつかは、当時発表されることはなかった。

プラウダ批判に応える作品として作曲された交響曲第5番ニ短調 作品47は1937年11月22日に初演され、圧倒的な成功をおさめた。指揮は、まだ実績のない新人ムラヴィーンスキイにまかされた(第1回全ソ指揮者コンクールで優勝してレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任するのは翌年のことである)。この作品から、ショスタコーヴィチとムラヴィーンスキイの共同作業は始まったのである。名誉を回復したショスタコーヴィチは、1937年春から務めていたレニングラード音楽院での教育活動にも力を注ぎ、穏やかで充実した時期を過していた。ピアノ五重奏曲ト短調 作品57は、この時期の代表作である。

1941年6月22日、ドイツ軍がソ連に侵攻してきた。またたく間にレニングラードは包囲された。包囲下のレニングラードで、ショスタコーヴィチは交響曲第7番ハ長調 作品60を作曲した。この作品の初演は、ソ連にとって国威発揚を兼ねた一大イベントであった。初演は大成功をおさめ、国外初演の権利を巡っては様々なやり取りが起こったほどである(結局、トスカニーニがアメリカで国外初演を行なった)。

ドイツの降伏により戦争が終結した1945年、ショスタコーヴィチは交響曲第9番変ホ長調 作品60を作曲する。勝利を記念した壮麗な交響曲というよりは、むしろ軽妙なディヴェルティメントのような曲調に様々な批判が起こった。そして1948年、悪名高きジダーノフ批判(資料コーナーに全文があります)が起きた。これは戦後の冷戦構造の確立に伴って、共産党中央委員会がイデオロギー逃走を強化するために学問や芸術の全分野に渡って繰り広げた一連の批判である。音楽に関しては、プロコーフィエフ、ハチャトゥリャーン、カバレーフスキイといった国際的にも著名な作曲家全てが名指しで批判された。そのため、音楽院の教授職を免職されたことをはじめとしてショスタコーヴィチの仕事は激減し、必然的に体制翼賛的な映画の音楽などで生計を立てなければならなかった。スターリンの自然改造計画を賞賛する内容のオラトリオ「森の歌」作品60の成功で、ショスタコーヴィチは再び名誉を回復したが、当時の社会情勢では作品の傾向に大幅な制限を受けたことはやむを得ない。この時期の代表作は映画音楽「ベルリン陥落」作品82革命詩人による10の詩 作品88カンタータ「我が祖国に太陽は輝く」作品90といった体制寄りのものばかりで、純音楽的な内容のものは24の前奏曲とフーガ 作品87くらいしかない。むろん、これは発表された作品に限った話で、ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調 作品77ユダヤの民族詩より 作品79弦楽四重奏曲第4番ニ長調 作品83といったユダヤ絡みの作品も作曲されてはいた。

スターリンが死去した1953年、ショスタコーヴィチは交響曲第10番ホ短調 作品93を作曲する。ジダーノフ批判以降の作品に見られた楽天的な調子はなく、いわゆる 「雪解け」の時代を象徴するような暗く悲しい作品の調子は賛否両論を巻き起こし、「第十論争」と呼ばれた。妻と母を相次いで亡くす悲劇にも見舞われるが、創作意欲に衰えは見られなかった。一方でかつてお蔵入りしていた作品の初演も立て続けに行なわれる。ジダーノフ批判後発表を差し控えていたヴァイオリン協奏曲第1番、弦楽四重奏曲第4番、「ユダヤの民族詩より」の他に、あのプラウダ批判の源となった「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を一部改訂した歌劇「カテリーナ・イズマーイロヴァ」作品114や、交響曲第4番なども日の目を見て好評を博している。

こうした中、ユダヤ人虐殺に関するテーマを扱ったエヴゲーニイ・エフトゥシェーンコの詩に着想を得たショスタコーヴィチは交響曲第13番変ロ短調 作品113を世に問う。政治的にも微妙なテーマに触れたこの作品は、フルシチョフの時代においても問題とされ、初演に際して様々な圧力がかかった他、初演後に歌詞の一部書き換えを余儀なくされた。この年の11月、ショスタコーヴィチは最後の伴侶イリーナ・アントーノヴナ・スピーンスカヤと結婚した。

その後ソ連はブレジネフの時代を迎えて社会は自由な雰囲気を失うが、すでに国際的に大作曲家としての評価を受けていたショスタコーヴィチは、もはや公的な批判にさらされることは少なかった。神経中枢の病気によって右手の自由がきかなくなり、ピアノ演奏はおろか作曲のペンを握るのにも不自由したが(最晩年は左手でペンを持った)、1975年8月9日に病院で死去するまでの間、休むことなく創作活動を続けた。


こうして見ただけでも、ショスタコーヴィチの創作活動が当時のソ連という(現在の私達から見れば)特殊な国家体制と大きく関わっていたことが分かります。ただ、どんなに偉大な作曲家であれ社会の中で生きる一人の人間である訳ですから、その生きた時代や社会が人間性や作品に反映することは当然です。バッハがもしショスタコーヴィチと同じ時代に生きていたとしたら全く違う作品を作っていたはずですし、ベートーヴェンだってもっと早く生まれていたら歴史に残らないような作品しか作ることができなかったかもしれません。しかし、共産主義というイデオロギーに基づいたソ連という国家を、私達はまだ完全に過去の史実として客観的に評価することはできていません。私達にとって、どこか生々しく強烈なソ連に対する印象が、ショスタコーヴィチをただの音楽家として評価することを妨げています。もちろん、それが必ずしも悪いことだとはいいません。確かに、作品の背景にある歴史的な事実を念頭において作曲家の心理を想像しながら音楽を聴くことは、なかなか楽しいものです。

しかし、ここで僕は敢えて“音楽だけ”をお聴きになることを勧めます。なぜなら、ショスタコーヴィチという作曲家の本領は、その“器用さ”にあると思うからです。確かに彼は度重なる批判に応じてその作風を変えました(とは言っても、強烈な個性は全作品を通じて聴き取ることができますが)。しかし、ショスタコーヴィチほどたくさんの作品を作りながら、いわゆる“駄作”がこれだけ少ない作曲家というのも珍しいでしょう。とりあえず店頭に並んでいるディスクを適当に購入しても、(演奏は別の問題として)作品の当りはずれはあまりありません。どんどん聴いたことのない作品を聴いてみてください。特に交響曲第5番だけを聴いて(しかも、その解説やヴォルコフ著の「証言」を読んだりして)ショスタコーヴィチに嫌悪感を持っているアナタ。晩年の弦楽四重奏曲や歌曲を聴いてみてください。あるいは、初期の才気走った作品群を聴いてみてください。それから再び交響曲第5番や「森の歌」のように中期の“批判に応えた”作品群を聴いてみてください。ショスタコーヴィチがどんな音楽家であったのかが分かるはずです。

最後に、僕が最も好きな写真を載せておきます。ムラヴィーンスキイ、ショスタコーヴィチ、オーイストラフというソ連から生まれた音楽界の巨人達が並んでいます。皆さんはこの写真の中に何を感じるでしょうか?スターリン体制に苦悩した芸術家の姿でしょうか?僕には、20世紀の最も素晴らしい音楽の調べが聴こえてくるような感じがするのです。


 初心者のためのШостакович入門

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Last Modified 2007.06.27

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