名盤(交響曲第4〜6番)


交響曲第4番ハ短調 作品43

ショスタコーヴィチの全作品中、その成立過程から曲の内容に至るまで、最も謎に満ちた作品。まずは、作曲から初演に至るまでの経緯を見ていこう。

作曲は、1935年9月13日から1936年5月20日にかけて行なわれた。この曲に関するショスタコーヴィチ自身最初のコメントは、次のようなものである:

わたしは、自分の仕事の一種のクレード(綱領)となるような第四交響曲の仕事にいよいよとりかかろうとしているところだ。(『イズヴェスチヤ』1935年4月3日号:ショスタコーヴィチ自伝, p. 61)

この約1週間後に、もう少しまとまった次のような発言がある:

いまやわたしは第四交響曲という大きな仕事にとりくんでいる。このところ、バレーや映画音楽のために、交響曲の分野ではおくれをとった感じがしている。交響曲は作曲家のなかでは一番むずかしい、一番重要なものである。

この交響曲のこと、その性格やテーマについては、まだ何もいうことができない。これまであたためてきた音楽的材料は、この作品のためには一つも使われず、まったく新らしく書きはじめている。これはわたしにとって非常に複雑で責任のある仕事だから、まず室内楽と器楽曲の形式でいくつか書いてみたいと思っている。そうすれば、交響曲形式をより深くより確実にものにする助けとなるだろう。弦楽四重奏曲にはすでにとりかかっている。ついで、レニングラードで構想したヴァイオリン・ソナタを書くつもりだ。(『夕刊モスクワ』1935年4月11日号:ショスタコーヴィチ自伝, p. 64)

この作品についての公式発言は、少なくとも素人が調べ得る範囲ではこの2つだけである。

速筆家であったショスタコーヴィチが作曲にあたり実に8ヶ月もの期間を要したことは、次の交響曲第5番作品47がわずか3ヶ月ほどで完成したことを考えると、ショスタコーヴィチがこの曲にかけた並々ならぬ意欲と、おそらくはそれに起因する仕事の困難さとが窺える。

Музыка社刊の旧作品全集第2巻を見ると自筆譜の最初のページの写真が掲載されているが、これは現在我々が耳にしているものとは全く別の音楽である(DSCH社刊の新作品全集第3巻にスコアが所収された)。マーラーの交響曲第10番を彷彿とさせる長大なヴィオラのパート・ソロに始まり、延々と重苦しく不安気な楽想が続いている(ロジデーストヴェンスキイ/ソヴィエト国立文化省交響楽団による本作品のMelodiya盤LPの付録として、同氏による成立過程のレクチャーが収録されており、そこでこの“幻の第1稿”の断片を聴くことができる)。1934年11月5日の日付があり、作品番号も別のものが与えられていたこの“幻の第1稿”は、上記本人の発言中にある「これまであたためてきた音楽的材料は、この作品のためには一つも使われず」という言葉の通り、結局破棄されてしまったものと思われるが、こうした異稿の存在はショスタコーヴィチには珍しく、それだけでもこの作品の“生みの苦しみ”を想像することができる。しかしながら、作曲が長期に渡ったことの理由は単にそれだけではないだろう。

新進の天才作曲家として多忙な日々を送っていたショスタコーヴィチに、1936年1月28日のソヴィエト共産党中央委員会機関紙『プラウダ』が容赦ない打撃を与えた。そこに掲載された「音楽のかわりに荒唐無稽」という論文は、1934年1月に初演され、広範な支持を集めた(と言われている)歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」作品29に対する強烈な批判であった。続く2月5日には、同じく『プラウダ』紙において、今度はバレエ「明るい小川」作品39に対する批判である「バレエの偽善」という論文が掲載される。わずか1週間程の間に、一人の作曲家の作品に対して2本もの批判が、共産党の名の元に行なわれたのである。これは尋常な事態ではない。

この「プラウダ批判」は、ショスタコーヴィチの音楽への単なる批評という次元で捉えられるような事件ではない。当時の独裁者スターリンが、その権力をより強大なものとするために行なったのが有名な“大粛清”。これは1937年から1938年にかけてピークを迎えるが、「プラウダ批判」はそのピークに向けて、文化・芸術分野においても厳しい思想・言論統制が始まることを意味していたのだ。国の内外を問わず注目を集め、名声を築きつつあったショスタコーヴィチは、見せしめの槍玉として格好の存在だったのだろう。

批判の対象となることが生命の危機すらも意味することは、自明のことであった。批判の内容が問題なのではない。批判されたということ自体が問題だった。これら2本の論文に基づく集会が数多く開かれ、かつては親しかった作曲者仲間からもショスタコーヴィチは批判されることとなる。こうした孤独な状況の中、彼は一切の弁明や反論を行なわず、ただじっとそれらの批判を受け入れていたようだ。問題となった『プラウダ』の新聞記事を、ショスタコーヴィチは後年に至るまでいつもポケットに入れていたという話もあるが、その孤独で屈折した心情は容易に想像し得るものではないだろう。

このような異常な状況下で、交響曲第4番の作曲は進められた。批判を受けて何らかの修正・破棄が行なわれたどうかは、自筆譜が紛失している現在では確かめるべくもない。とにもかくにも5月20日には完成し、その直後の5月30日には長女のガリーナが誕生した。

完成後、すぐに初演の準備が進められ、フリッツ・シュティードリ(1883-1968)指揮のレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団によるリハーサルが始められた。1933年にヒトラーから逃れてソ連に亡命してきたウィーン生まれのシュティードリが、どのようにこの作品に取り組んだのか、今となってははっきりと分からない。ヴォールコフの『証言』などでは相当投げやりなリハーサルを行なったように書かれているが、シュティードリはマーラーと知己があっただけにこの作品を大変気に入ったという説もある。そして同年11月、ショスタコーヴィチは初演の中止を決定する。

以後この作品は封印され、スコアは紛失し、「幻の交響曲」となる。そして、ショスタコーヴィチは逮捕されることもなく生き延びた。

初演撤回の理由は、現在のところはっきりしたことは全く分かっていない。作品に不十分な点を見出して撤回したとも、リハーサルの出来を聴いて満足な演奏が行なわれないと判断して撤回したとも、曲の内容に生命の危機を感じて撤回したとも言われているが、そのいずれも決定的な説得力を持っていない。ただ、この作品を抹殺するつもりのなかったことだけは、次の交響曲が第4番ではなく第5番と名づけられたことから推測される。また、スターリンの死後1956年には、さりげなく次のような発言もしている:

第四交響曲も失敗で、オーケストラで演奏もされなかった。わたし自身は、それでもなお、この総譜のなかのあちこちが気にいっているが。(『ソヴェト音楽』1956年第9号:ショスタコーヴィチ自伝, p. 260)

実際、初演撤回後、交響曲第5番を初演する時に第4番とどちらを演奏するのか作曲家同盟で議論されたり、それからも機会がある毎に初演の可能性を求めて奔走していたという話もある。少なくともショスタコーヴィチ自身は、たとえ“失敗作”だと見なしていたにせよ、この作品を“お蔵入り”にする意思はなかったようである。

この「幻の交響曲」がようやく陽の目を浴びるのは、1960年辺りのことである。モスクワ・フィルハーモニー協会の芸術監督モイセイ・アブラーモヴィチ・グリーンベルグが、モスクワ・フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者になったばかりのキリール・ペトローヴィチ・コンドラーシンに、「まだ一度も演奏が行なわれていないショスタコーヴィチの交響曲第4番を取り上げてみないか」と話を持ちかけた。当時既にスコアは紛失していたが、レフ・アトヴミャーンが残されたパート譜からスコアを復元し、ピアノ連弾用の編曲版を作成していた。コンドラーシンはこの編曲版で作品に目を通した後、この提案を引き受けることにした。一説によると、ショスタコーヴィチはこの作品をムラヴィーンスキイに初演してもらいたかったらしいが、ムラヴィーンスキイは交響曲第5番以前の作品を決して取り上げようとはしなかったらしい。また、ショスタコーヴィチのプライドが、自分から自分の作品を演奏してくれと依頼するのを妨げていたという話もある。

当時のソ連では珍しくマーラーの交響曲を取り上げていたコンドラーシンの演奏を、ショスタコーヴィチは高く評価していた。両者の共同作業は順調に進み、1961年12月30日、モスクワ音楽院大ホールにて、コンドラーシン指揮のモスクワ・フィルハーモニー交響楽団がこの作品の初演を果す。初演撤回から実に25年の歳月が流れていた。これを期に、ショスタコーヴィチとコンドラーシンとの親交が始まり、コンドラーシンは交響曲第13番作品113や叙事詩「ステパーン・ラージンの処刑」作品119といった問題作の初演、そしてショスタコーヴィチの交響曲全曲の世界初録音という偉業を次々にこなしていくのである。

初演が大成功を収めたと伝えられているこの交響曲は、ショスタコーヴィチ初の本格的かつ大規模な交響曲である。楽器編成は極めて大きく、各々が独特な構成を持つ3楽章からなる。直接的な引用から、各楽章の構成に至るまで、マーラーの影響を認めることは容易である。ただ、後の作品に見られるような、極めて職人的な緊密さはそれほど感じられない。初演が大成功だったというのもにわかには信じがたいような取り止めのなさは、この作品の持つ欠点ともいえるだろう。

とはいえ、次から次へと溢れ出す主題やエピソード、突如として現れる曲想の転換、極めて抽象的な音楽と陳腐なまでに明快な音楽との交錯といった、後の作品においては控え目にかつ洗練されて用いられている特徴が、全てナマの形で存在していることが、欠点を補って余りある魅力となっている。途切れることなく持てる限りのエネルギーを叩き付けてくるような音楽は、演奏者だけではなく、聴き手にも尋常ならざるエネルギーを強いる。まさに、やりたい放題。ショスタコーヴィチの隠されたエゴイストの側面を顕著に示した作品といえるだろう。率直に言って、いきなりこの作品を聴いてショスタコーヴィチに惹かれる聴き手はほとんどいないだろう。交響曲でも第5番や第10番といった洗練された作品を聴き、第8番のような完成度の高い作品を聴き、第13番以降の強烈な個性を聴き込んで馴染んだ上で、是非この作品を聴いて欲しい。政治的な背景に対する興味ばかりが先行する単なる実験作ではないことがわかるはずだ。ここには、それ以降のあらゆるショスタコーヴィチの萌芽がある。

ショスタコーヴィチの交響曲中、もっとも原始的なアクの強さが際立ち、大規模なだけではなく演奏も至難な作品であるためか、録音数は決して多くはない。しかしながら、初演者であるコンドーラシン/モスクワPO(Melodiya)の初録音盤は、今後も決して超えられることのない空前絶後の名演だと断言できる。冒頭の強烈な一撃から終止の緊張感に満ちた音に至るまで、ただの一瞬も意味のない音がない。スコアに込められたエネルギーを全て再現し尽くし、作品の持つ独特な雰囲気を余すところなく表出し切ったコンドラーシンの手腕にはただただ脱帽するのみ。確かに録音に不満は残るし、技術的にも粗い部分はあるが、この巨大な音楽の前では全く問題にはならない。この作品にとどまらず、ショスタコーヴィチを語る上で絶対に聴き逃してはならない超凄演。

コンドラーシン盤を超える演奏はあり得ないが、それに匹敵する演奏はいくつかある。中でも、新しい録音であるラトル/バーミンガム市SO(EMI)盤が素晴らしい。非ロシアの団体で、ここまでこの曲の狂暴性を表出できた演奏は他にない。しかも、指揮者がオーケストラを完璧にドライヴしている。いかにもラトルらしく細部の磨き上げも見事だが、いささか散漫になりがちなこの作品をスケール大きくまとめあげる確かな造形力も光る。オーケストラも大健闘していて、技術的な不満は全くといって良いほど感じられない。テンポ設定などの解釈もオーソドックスでありながら、音楽は常にみずみずしい情熱に満ちている。全ての面で満足できる名演。

最もこの作品に向いていると思われる指揮者ロジデーストヴェンスキイもいくつかの録音を残しているが、その全てが立派な演奏である。ロジデーストヴェンスキイ/ソヴィエト国立文化省SO(Melodiya)の1985年スタジオ録音盤は、曲の内容を完璧に把握しきった名演。オーケストラは巧いのか下手なのかよく分からないが、凄絶な大音響と妙に安っぽい管楽器の音色が絶妙の雰囲気を醸し出している。凝った楽器バランスが非常に効果的で、聴く度に新たな発見がある。ロジデーストヴェンスキイの最良の面が出た演奏と言えるだろう。ロジデーストヴェンスキイ/ボリショイ劇場O(Russian Disc)の1981年ライヴ録音盤も、有無をいわさぬ説得力に満ちた名演。ライヴゆえに細部に綻びがないわけではないが、全体としては十分に精緻な演奏。特に随所に見られる大胆な楽器バランスは、この曲の持つ凶暴さや恐怖感を暴き出している。第3楽章後半などで顕著なエグいまでの表情付けも、曲の本質とよく合致している。一方、ロジデーストヴェンスキイ/ウィーンPO(Cincin)の1978年ライヴ録音盤というものも存在する。演奏そのものはなかなか充実しており、第3楽章のトロンボーン・ソロ等いつものロジデーストヴェンスキイ節に比べるとおとなしい部分もあるが、全体に異様な緊張感が張り詰めた好演である。

上記3者に比べるとやや落ちるものの、生半可な気持ちでは取り組むことのできない作品だけに、好演・熱演もいくつかある。アシケナージ/ロイヤルPO(London)盤は、アシケナージによる交響曲シリーズ中、最も出来の良い演奏の一つ。各楽器(特に金管楽器と打楽器)の効果が自然に強調され、曲の流れを重視した演奏となっている。この難解な曲を分かりやすく聴かせるという点では、傑出している。ただ、オーケストラに力量不足が感じられる部分も少なくなく(第1楽章のフーガ等)、時折音楽が断片的になってしまうのが惜しい。N. ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナルO(Chandos)盤も力感に満ちた立派な演奏。ホルンの強奏が印象的なオーケストラはやや粗いものの、丁寧な仕事ぶりに好感が持てる。やみくもな情熱が十分に表現されており、この曲が若きショスタコーヴィチの手による作品であることを再認識させてくれる。敢えて言えば弱奏部の雰囲気が若干物足りないが、手堅くまとめあげられた秀演である。録音も素晴らしい。

あなどってはいけないのが、プレヴィン/シカゴSO(EMI)盤。自然な音楽の流れと、響きの美しさをじっくりと聴かせてくれる、内容のぎっしりとつまった秀演。これだけ狂暴性を押えながらも、この作品の狂気を認識させてくれる演奏も珍しい。刺激的な響きを求める向きには物足りなさが残るだろうが、聴き終えた後の充実感は素晴らしい。シーモノフ/ベルギー・ナショナルO(Cypres)盤はマイナーな存在ではあるが、非常に安定した解釈で曲の内容を明らかにする優れた演奏。全ての音に意味が感じられる。オーケストラは、音色やアンサンブルに今一つキレがなく、音の力に不足するのが残念だが、逆にこの曲が交響曲であることを再認識させるような落ち着いた仕上がりになっている。響きにロシア色は少ないものの、内容はロシアそのものであるところが大変素晴らしい。最後に、スラトキン/セント・ルイスSO(BMG)盤も忘れてはならない。オーケストラの高い機能を存分に生かした、整然として格調の高い秀演。ロシア風のアクの強さは陰をひそめているが、音色に対する感覚は抜群で、期待をはずされることはない。スラトキンの曲理解も堅実なもので、この曲の複雑な内容をきちんと整理して捉えているのがよく分かる。ただ、全体に流麗に音楽が流れていくため、人によって多少好みは分かれるだろう。しかし、立派な演奏であることには違いない。

コンドラーシン盤
(Victor VICC-40094/103)
ラトル盤
(EMI TOCE-8747)
ロジデーストヴェンスキイ盤
(Victor VICC-40001/11)
ロジデーストヴェンスキイ盤
(Russian Disc RD CD 11 190)
ロジデーストヴェンスキイ盤
(Cincin CCCD 1021)
アシケナージ盤
(London F00L-20448)
N. ヤルヴィ盤
(Chandos CHAN 8640)
プレヴィン盤
(EMI 7243 5 72658 2 9)
シーモノフ盤
(Cypres CYP 2618)
スラトキン盤
(BMG-RCA 09026-600887-2)

交響曲第5番ニ短調 作品47

知名度、演奏頻度共に、作曲家ショスタコーヴィチを代表する作品である。一般的には、「プラウダ批判に対する名誉回復を図った、“模範的”な作品」とされている。初演直前に撤回された交響曲第4番と比較して“妥協の産物”であるとする意見も、第4楽章に“二重言語”を見出して反体制的な真意が込められているとする意見も、結局は同じことである。

しかしショスタコーヴィチ自身は、プラウダ批判以降、公的な発言が極端に減ったこともあり、この交響曲の構想については一切の言葉を残していない。作曲は1937年4月18日から7月20日にかけて行なわれたとされているが、『自伝』中でこの作品について(初演前に)言及されているのは、次の一節のみである:

つい最近わたしは第五交響曲を書きあげたが、十一月末に公開演奏会で発表されることになっている。(『労働者と演劇』1937年, 第11号:ショスタコーヴィチ自伝, p. 81)

創作面でも事実上の沈黙を貫き(交響曲第4番以降の作品は、劇音楽「スペインに敬礼」作品44、映画音楽「マクシームの帰還」作品45、「プーシキンの詩による4つの歌曲」作品46の3曲のみ)、この間にショスタコーヴィチが考えていたことは、全くといってよいほどわからない。

ここで、当時のショスタコーヴィチがおかれていた状況を整理しておこう。要点は、以下の3つである:

  1. 1936年1月28日の『プラウダ』紙の論説に端を発した、いわゆる「プラウダ批判」を受け、ソ連楽壇における立場が非常に悪化していた。
  2. 第1次モスクワ裁判の死刑判決がおりる(1936年)など、大粛清の嵐が吹き荒れる中、ショスタコーヴィチのパトロンであったM. トゥハチェフスキイ元帥が逮捕・処刑され、ショスタコーヴィチ自身もNKVDからの呼び出しを受けた。また、姉マリーヤの夫フレデリクスが強制収容所に送られ、姉もキルギス共和国の首都フルンゼに追放、妻ニーナの母ソフィヤ・ヴァルザルは収容所送りになり、義理の伯父M. コストリキンに至っては銃殺されるなど、近親者も粛清の対象となっていた 。このような社会情勢下において、プラウダ批判で「人民の敵」とされたショスタコーヴィチが粛清の対象となる可能性は、決して低いものではなかった。
  3. 1934年頃から不倫関係にあったエレーナ・コンスタンチノーフスカヤ(1935年には、妻ニーナと離婚寸前にまでなった)が、1936年に密告によって投獄される。その後、スペインに亡命してドキュメンタリー映画の制作者であるR. カルメンと結婚した。
まずAから、音楽家としての名誉回復を図るために、批判に応えた作品を発表する必要があったことがわかる。ただし、それは自身の作風を大きく転換したり、音楽的・思想的に妥協するということを、必ずしも意味するものではない。いずれにせよ、この時点で新作(それも交響曲のような大作)を初演するということは、本人の意思がどうであれ、プラウダ批判との関係で評価されるだろうことは、ショスタコーヴィチ自身も了解していたに違いない。BとCは、作品の内容解釈に関わる背景である。これについては、後述する。

初演は1937年11月21日、十月革命20周年の記念演奏会(レニングラード・フィルハーモニー大ホール)で行われた。演奏は、当時はまだ無名だった新進指揮者のエヴゲーニイ・アレクサーンドロヴィチ・ムラヴィーンスキイが抜擢された。この人選の経緯は不明だが、今となっては、ショスタコーヴィチとムラヴィーンスキイの両者にとって、まさに運命だったとしか言いようがない。この初演の成功によってムラヴィーンスキイは頭角を現し、この曲で翌年の第1回全ソ指揮者コンクールで優勝してレニングラードPOの首席指揮者となる。彼が生涯に渡ってこの作品を指揮した回数は、120回を超える。ショスタコーヴィチもムラヴィーンスキイの才能と仕事に取組む姿勢に信頼を抱き、以降の重要作の初演は彼に任せることとなった。

初演の大成功は、伝説的なものであった。第3楽章の途中で聴衆が声をあげて泣いていた、演奏終了後に聴衆が総立ちになって拍手喝采した、その熱狂が示威運動に発展しそうなほどだった…… これらが事実かどうかを確認する術はないが、プラウダ批判で被った社会的ダメージを回復するには十分過ぎる成功を収めたことだけは確かなようだ。この交響曲が第四番の「残り物」で出来ていると評価したソレルティーンスキイをはじめ、この作品に批判的な音楽家もいたが、多くの聴衆は「こういう偉大な旋律と思想を届けてくれたわれらの時代に栄えあれ。こういう芸術家を生みだしたわが国民に栄えあれ」と賛辞を送ったA. トルストーイのように、極めて好意的な反応を示した。

ショスタコーヴィチ自身が作品の内容について言及したのは、初演後、何度かの演奏を経て評価がある程度定まってからであった:

わたしの新しい作品は、抒情的英雄的交響曲といってもいいと思う。その基本的思想は、人間の波瀾の生涯とそれを乗りきる強いオプチミズムである。わたしはこの交響曲で、大きな内的、精神的苦悩にみちたかずかずの悲劇的な試練をへて、世界観としてのオプチミズムを信ずるようになることを示したいのである。ソ連作曲家同盟レニングラード支部で討論したさい、ある人たちは、この第五交響曲を自伝的作品と呼んでくれた。それはある程度まではあたっている。(『文学新聞』1938年1月12日号:ショスタコーヴィチ自伝, p. 86)

さらに、モスクワ初演(1938年1月29日)の4日前に『私の創造的回答』という自身の論文を発表し、以下のように述べた:

(数々の批評の中でも)私をことのほか喜ばせたものがひとつありましたが、それは、交響曲第五番が正当な批判に対する一人のソビエト芸術家の実際的かつ創造的な回答である、というものでした 。(ショスタコーヴィチ ある生涯, p. 136)

これらのことから、
  1. プラウダ批判を受け入れ、その回答となる模範的な作品
という、ショスタコーヴィチ生前に主流であったこの作品に対する一般的な解釈が定まった。

しかし、この解釈はショスタコーヴィチの死後に発表された『証言』によって180度転換する:

あるとき、わたしの音楽の最大の解釈者を自負していた指揮者ムラヴィンスキイがわたしの音楽をまるで理解していないのを知って愕然とした。交響曲第五番と第七番でわたしが歓喜の終楽章を書きたいと望んでいたなどと、およそわたしの思ってもみなかったことを言っているのだ。この男には、わたしが歓喜の終楽章など夢にも考えたことがないのもわからないのだ。いったい、あそこにどんな歓喜があるというのか。第五交響曲で扱われている主題は誰にも明白である、とわたしは思う。あれは《ボリス・ゴドゥノフ》の場面と同様、強制された歓喜なのだ。それは、鞭打たれ、「さあ、喜べ、喜べ、それがおまえたちの仕事だ」と命令されるのと同じだ。そして、鞭打たれた者は立ちあがり、ふらつく足で行進をはじめ、「さあ、喜ぶぞ、喜ぶぞ、それがおれたちの仕事だ」という。

これがいったいどんな礼讃だというのか。それが聞きとれないなんて、耳なしも同然だ。ところが、ソ連作曲家同盟の指導者で、スターリン批判後に自殺した作家アレクサンドル・ファジェーエフ(1901〜56)にはそれが聞こえた。それで彼は、まったく自分だけの個人的な日記に、第五番の終楽章は果てしない悲劇だ、と書きこんだのだ。きっと、ロシアのアルコール中毒患者に固有な魂で感じとったに相違ない。(ショスタコーヴィチの証言, pp. 321〜322)

この一節は、前述した背景Bを強く意識した
  1. 政治的・社会的な圧力に抵抗した、二重言語的な内容を持つ作品
という、新たな解釈を生み出した。これは、冷戦下にあった当時の西側にとっては受け入れやすい解釈であり、1980年代のショスタコーヴィチ受容に大きく貢献した。

IとIIの解釈は、いずれも終楽章の位置付けが主要な論点である。初演後にショスタコーヴィチ自身は次のような言葉を残している:

わたしの考えでは、芸術作品は、どんなばあいでも自伝的な側面をもっている。どんな作品にも生きた人間、作者自身が感じられることは当然である。それをつくった人間の浮んでこないような作品ほど退屈な、つまらぬものはない。(『文学新聞』1938年1月12日号:ショスタコーヴィチ自伝, p. 86)

これは、この作品がショスタコーヴィチの“自伝”に相当する内容を含んでいることを示唆していると考えてよいだろう。終楽章のコーダをこの文脈で捉えるならば、背景Aを重視すれば「模範的な作品で栄光を取り戻した“歓喜”」となり、背景Bを重視すれば「不本意ながらも喜ぶことを強制された“歓喜”」ということになる。ところが、この作品には、ミスプリントに起因すると考えられる版の問題が少なからずあり、特に終楽章コーダのテンポはこの「歓喜」の表現とも関連してくるだけに諸説あるものの、自筆譜が戦争中に紛失しているために、今となっては確認がとれないことが、問題を複雑にしている。

そこで、ショスタコーヴィチお得意の引用という観点から終楽章を見直すと、展開部の最後に「プーシキンの詩による4つの歌曲」作品46の第1曲「復活」(当時はまだ初演されていなかった)の、伴奏パートの一部が浮かび上がる。この曲の歌詞は次のようなものである:

野蛮な画家が 物憂げな絵筆で
天才の絵画を塗りつぶし
おのれの不法な絵を
その上から 意味もなく描いている

しかしよそ者の塗料は 年を経て
古い鱗のように剥がれ落ち
天才の創造物が かつての美しさそのままに
我らの前に姿を現すのだ

かくして苦しみ抜いた私の魂から
誤解や思い違いは消え去り
初めての頃の清らかな日々の幻影が
心の中に沸き上がってくるのであった   (一柳富美子訳)

当時のショスタコーヴィチがおかれていた背景Aを考えるならば、この詩が意味するところは明らかで、現在では単純に解釈Iを支持する者はほとんどいない。

しかし、近年の研究ではさらに新たな視点が提示されている。ポイントは、第1楽章提示部にあるビゼーの歌劇「カルメン」からの引用である。背景Cにある、かつての不倫相手の夫となった男性の名前がカルメン氏であることから、この作品の“自伝的側面”に恋愛という新しい要素が見出される。これはウィルソンなどが主張していることだが、一柳はさらに踏み込んで、前述した歌曲の引用部分を厳密に照合するならば、それは「かくして苦しみ抜いた私の魂から」以降の4行だけであることを指摘し、

  1. エレーナ・コンスタンチノーフスカヤとの恋愛の顛末を描いた作品
という解釈の可能性を示唆している。交響曲第10番の第3楽章など、女性の存在がショスタコーヴィチの創作上のきっかけとなった例は他にもあることから、この解釈IIIにも相応の説得力はある。

以上のように、その内容解釈には様々な可能性があるものの、楽曲そのものの完成度は非常に高い。形式や動機の扱いは、まさに模範的と言ってよいだろう。私見では、この作品がショスタコーヴィチの最高傑作とは思わないが、作曲時の背景などから過小評価されることには反対である。なお、ここで示した3つの解釈のどれをとっても、我が国で使われることの多い「革命」という副題には何の正当性もないことを強調しておきたい。

実演の頻度も非常に高い作品だけに、録音も相当数存在する。数々の有名演奏家が録音しているので、好きな演奏家の演奏を選んで聴くのも良いだろう。ファースト・チョイスとして筆者が推薦するのは4点である。まずは、全てにおいてバランスのとれたハイティンク/アムステルダム・コンセルトヘボウO(London)盤。単純な歓喜でもなければ逆に『証言』的な悲劇でもない解釈は、スコアを丹念に読み取った結果の産物だろう。文字通り純音楽的な仕上げでありながら、聴き手に何かを考えさせずにはおかない説得力がある。次に、スコアの隅々まで分析して提示するようなインバル/フランクフルト放送SO(Denon)盤の機能的な演奏を挙げたい。フランクフルト放送SOの硬質で透明な響きが、独特のメタリックな美しさを醸し出している。初演者であり、この曲を119回も演奏したムラヴィンスキー/レニングラードPOには十数種類の録音と映像があり、どれか一つだけを選び出すことは至難であるが、録音状態も考慮して、ここでは1973年5月26日に東京文化会館で行われた演奏会のライヴ盤(Altus)を挙げておく。筆者が好きなのは、このコンビの絶頂期であった1965年11月24日のライヴ盤(Russian Disc)だが、とにかくこのコンビの録音はどれをとっても、気力に満ちた厳しい音楽の運びがショスタコーヴィチの音楽と本質的に共鳴した、この作品の規範となる解釈がなされている。最後は、A. ヤーンソンス/レニングラードPOの1971年9月13日ライヴ盤(intaglio)である。極めてオーソドックスな解釈で、奇を衒った部分は皆無。ライヴゆえの瑕は少なくないが、音楽的な完成度の高さがそれを補って余りある。ムラヴィンスキーの鉄の統率とは対照的に、自発的にオーケストラのポテンシャルを引き出すようなヤーンソンスの指揮が素晴らしい。終演後の猛烈な歓声も当然だろう。この作品の理想的な演奏である。録音状態が優れないのが残念である。

個性的な名演としては、次の3点を挙げることができるだろう。まずは、戦慄の名演であるミトロプーロス/ニューヨーク・フィル(Sony)盤。『証言』が出るはるか以前の1950年代に、既にこのような演奏が、しかも西側でなされていたことに驚愕する。あらゆる音が聴き手に突き刺さるように響く、恐ろしく悲劇的な音楽である。確かな造形に基づいたK. ザンデルリンク/ベルリンSOの1982年盤(Deutsche Schallplatten)の雄大な演奏は、派手さはないが全ての音に深い意味を感じさせる表現力と集中力が卓越している。解釈として興味深いのは第4楽章冒頭のテンポ設定で、スコアの指示とは逆に、徐々に落ち着いていくように演奏されている。にも三種類の録音がある。金管楽器と打楽器の無節操な強奏が印象的な、凄まじいまでに気合が漲ったフェドセーエフ/モスクワ放送SOの1975年盤(Victor)は、非常に魅力的。同じコンビの1997年盤(Canyon)は、さらに完成度が高く、木管楽器と弦楽器の美しい音色と抒情溢れる歌が際立つ。

他にも優れた演奏は数多くあるのだが、キリがないので、残りは本HP内にあるディスコグラフィを参照していただきたい。

ハイティンク盤
(London POCL-9255/66)
インバル盤
(Denon CO-4175)
ムラヴィーンスキイ盤
(Altus ALT-002)
ムラヴィーンスキイ盤
(Russian Disc RDCD 10910)
A. ヤーンソンス盤
(intaglio INCD 7121)

ミトロプーロス盤
(Sony S2K89658)
K. ザンデルリンク盤
(Deutsche Schallplatten
25TC-275)
フェドセーエフ盤
(Victor VICC-2039)
フェドセーエフ盤
(Canyon PCCL-00401)

交響曲第6番ロ短調 作品54

1939年4月15日から作曲が始められ、同年10月中頃に完成した。初演は1939年11月5日、レニングラード・フィルハーモニー大ホールにてエヴゲーニイ・アレクサーンドロヴィチ・ムラヴィーンスキイ指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団が行なった。

1937年の交響曲第5番作品47で、前年に行なわれたプラウダ批判で受けた社会的ダメージを一気に回復したショスタコーヴィチの自作には、当然ながら注目が集まった。1938年以降、第5番に続く大作“レーニン交響曲”に対する言及が目立つようになる。

このところわたしは、「マクシムの帰還」「ヴォロチャーエフ堡の日々」「偉大な市民」「友人たち」「ヴィボルグ地区」などの映画音楽をたくさんつくった。

また、レールモントフの「仮面舞踏会」のオペラをつくりたいという考えを、ずいぶん前からあたためてきた。このすばらしい作品をよみかえすごとに、これまでロシアの作曲家たちがこの作品を避けてきたのがなぜだかわからない。

だが、レーニンにささげる交響曲を書いてしまうまでは、このオペラにはとりかからない。この領袖の巨大な姿を具象化することは、むろんむずかしい芸術的課題である。それはよくわかっているつもりだ。そしてわたしが自分の交響曲の主題について語るときには、レーニンの名にむずびついた歴史的事件、伝記的事実ではなく、一般的テーマ、作品の一般的な概念について言っているのである。

わたしは、このテーマを音楽という手段でどう現わそうかと長いあいだ粘りづよく考えている。この交響曲は、合唱団と独唱者を加えた管弦楽団の演奏による作品にしたいと思っている。レーニンにささげられた詩や文学作品をくわしく読んでいるが、交響曲の歌えるような歌詞を書かなければならない。この歌詞は主にレーニンについてのマヤコフスキーの詩からつくられるだろう。そのほか、レーニンにかんする諸民族の話や歌、それにソヴェトの兄弟諸民族のレーニンについての詩篇のうち最上のものを使うつもりだ。わたしはあれこれ材料をあさっている。

わたしは、交響曲のなかにさまざまな詩人のレーニンについての作品をとりいれることを恐れてはいない。諸民族のレーニンについてのさまざまな言葉に息づいている愛の感情のなかにこそ、テキストのより深い芸術的な一致がある。文学と音楽との一体性は、内容と表現手段とにおいて統一されている交響曲においても保たれねばならない。この交響曲には、レーニンにかんする民衆の歌のことばだけでなくその旋律も利用したいと思っている。(『文学新聞』1938年11月20日号:ショスタコーヴィチ自伝, pp. 89-90)

……最近わたしは、ソ連のすみずみから、また実にさまざまな職業の人びとから、何十通という手紙を受けとったが、それはわたしのつぎの交響曲について忠告と希望をよせたものだった。なかで一番貴重な意見は、民謡などをできるだけ広く利用するというものだった。どの手紙もレーニンの姿が最もあざやかに多面的に描きだされるよう、作者を援助しようという点で一致していた。(『ソヴェト芸術』1938年11月20日号:ショスタコーヴィチ自伝, p. 90)

この“レーニン交響曲”が当局の強い意向であったことは、交響曲第6番が完成した直後から再び次のような発言が続くことからも推測される。

わたしの長いあいだ熱心にはぐくんでいる夢は、レーニンにささげる交響曲である。もう一年まえからこの仕事にかかっている。台本を書いてくれる人は、レーニンにかんするきわめて豊富なフォークロア(歌、ものがたり、伝説)をえらんで、台本をつくっているところだ。

このレーニンについての交響曲は、合唱団、ソロの歌手、朗読者なども参加する四楽章の作品にしようと考えている。第一楽章はレーニンの青年時代、第二楽章は十月革命を率いるレーニン、第三楽章はレーニンの最期、第四楽章はレーニン亡きあとレーニン主義の道を歩む、となる。音楽的断片はすでにいくつか準備されているが、それらは、最近のわたしの最も重要な仕事として、この人類の天才的な領袖にささげる第七交響曲にまとめられる。(『レニングラード・プラウダ』1939年8月28日号:ショスタコーヴィチ自伝, pp. 95-96)

ちかく、わたしは、春、喜び、青春、叙情の気分を伝えたいと思った第六交響曲から完全に手をはなれて、レーニンにささげる交響曲作品にとりかかろうとしている。この交響曲は、ずいぶん前からあたためていたもので、合唱団、ソロの歌手、朗読者なども参加する四楽章の作品となるはずである。レーニンの青年時代、十月革命を率いるレーニン、レーニンの最期が最初の三楽章だ。最終楽章は、「レーニン亡きあとレーニン主義の道を歩む」ということがテーマになっている。いくつかの音楽的断片はすでに準備がととのっている。この世界プロレタリアートの天才的領袖についてのきわめて豊富なフォークロアにもとづいてつくられた台本もまもなく完成する。(『保養新聞』(ソーチ)1939年10月20日号:ショスタコーヴィチ自伝, p. 96)

レーニンにささげる交響曲を計画してからずいぶんたつ。それは大きく複雑な仕事で、オラトリオ形式の大交響曲となるはずだ。マヤコフスキーの叙事詩「レーニン」がそのテーマで、わたしはそこから出発もしたのである。第一部、第二部のためにはすでにたくさんのデッサンをした。以下二つの部の構想も基本的にできあがっている。けれどもそれで一番むずかしいところを乗りきったというわけではなく、いまからこそが大変なのだ。これはぜひとも一九四〇年中に仕上げたい。この交響曲には、レーニンの永遠の姿と偉大な思想とをいささかなりとも写しだしたいものである。(『レーニンスカヤ・イスクラ』1940年1月17日号:ショスタコーヴィチ自伝, pp. 98-99)

レーニンにささげる交響曲を書くことは、わたしの心からの、ずっと以前からの願いだった。それは、一九二四年、全世界の勤労人民の愛する領袖の死によってゆさぶられた、全人民的な深い悲しみの日以来のものである。

仕事にとりかかったのは二年前のことだった。大きく複雑な、きわめて責任の思い、それとともにひどく興奮させられる、興味ぶかい仕事だ。それは、管弦楽団、合唱団、ソリストのための大交響曲となるはずである。元になるのは、マヤコフスキーの叙事詩「レーニン」で、レーニンにたいする燃えるような愛情につらぬかれたこの詩人の熱烈な言葉は、きわめて貴重な材料である。しかしマヤコフスキーの詩―その簡潔な言葉―の特性は、作曲家には少なからぬ困難をひきおこす。

マヤコフスキーの詩のほかにも、人民のみずからの領袖にたいするあふれんばかりの愛情のにじみでている民謡・民話などを利用したいと思っている。前途には大きな緊張した仕事が待ちうけているが、わたしは全力をだしきるつもりだ。そして今年中に終えられればと思っている。人類史上最も偉大な人民の領袖レーニンの姿を、この音楽になんとかして反映したいものである。(『レニングラード・プラウダ』1940年1月20日号:ショスタコーヴィチ自伝, p. 99)

文面からも、一向に作曲を進めようとしないショスタコーヴィチに対する苛立ちのようなものが感じられて、大変面白い。おそらく、作品の編成や構成、マヤコフスキーの詩の利用などは、ショスタコーヴィチ自身のアイディアではないだろう。プラウダ批判以降、ショスタコーヴィチが自分自身で公式発言を書くことはほとんどなかったと言われ、これらの文章も単に署名だけなされたものだとも推測される。この後1941年に大祖国戦争が勃発し、交響曲第7番作品60で愛国的な交響曲を発表したショスタコーヴィチに、“レーニン交響曲”の圧力はしばらくかからなかった。再び“レーニン交響曲”に対する言及がなされるのは、1959年のことである:

いま、わたしは、レーニンの不滅の姿をえがいた作品をつくりたいという考えにますますつよくとらえられている。どんな形でそのもくろみを実現するか、オラトリオにするか、カンタータにするか、交響曲か交響詩にするかは、まだわからない。ただ明らかなことは、この上なく複雑な時代における最も偉大な人間の巨大な姿を具象化する仕事には、全創作力の緊張が必要だということである。なんとかしてわたしはこれを、レーニン生誕九十周年までに完成したいと考えている。(『ソヴェト文化』1959年6月6日号:ショスタコーヴィチ自伝, p. 293)

こうした、執拗な当局の圧力に屈したショスタコーヴィチは、交響曲第12番作品112でレーニンを主題にした交響曲を実現する。この交響曲第12番の内容については、別項を参照されたい。

さて、前置きがずいぶんと長くなったが、交響曲第5番で“国民的大作曲家”となったショスタコーヴィチが、“レーニン交響曲”に対する期待をさんざん煽らせた挙げ句発表したのが、本作である。

わたしの第六交響曲の完成もまぢかい。はじめの二つの楽章はもう書きあげた。あと数週間で最期の楽章の第三部もおわるはずだ。

第六交響曲は、音楽の性質からいうと、悲劇性と緊張という要素が特色だった第五交響曲の気分、情緒とはちがっている。こんどの交響曲では、瞑想的、抒情的な音楽がまさっている。この音楽で、春、喜び、青春といった気分が伝えられればと思っている。(『レニングラード・プラウダ』1939年8月28日号:ショスタコーヴィチ自伝, p. 95)

いきなり緩徐楽章から始まり、軽い楽章が続き、陽気なフィナーレを持ったこの作品は、“頭のない交響曲”とも言われることがあり、大編成のオーケストラを使用している割には室内楽的な印象を受ける。初演は幾分戸惑いを持って受け止められたらしい。当然のことながら、“レーニン交響曲”を期待していた向きからは失望と不評を買った。しかしながら、一見不完全なようにも見えるが、よく見ると細部に凝った仕掛けがあり、まさに職人ショスタコーヴィチの本領が存分に発揮された佳作といえる。第5番と第7番の間にはさまれ、不当に無視されるような扱いを受けてきた作品ではあるが、近年取り上げられる機会が増えてきているのは当然のことであろう。弦楽四重奏曲第1番作品49や、ピアノ五重奏曲作品57といった同時期の作品と同じく、どこかくつろいだ抒情に満ちているのが何とも魅力的。それにしても、当局から厳しい批判を受けて間もないというのに、周囲の期待と圧力を振り切ってこのように独創的な作品を発表してしまうとは、何と大胆なことだろうか。それとも、「何を書いても自分の作品は受け入れられる」というプライドと純粋な気持ちがあっただけなのか。いずれにしても、ショスタコーヴィチという人間は一筋縄ではいかない。

この曲でも、やはり初演者ムラヴィーンスキイの演奏が傑出している。全部で3種類の演奏が残されているが、ムラヴィーンスキイ/レニングラードPO(Melodiya)の1965年のライヴ盤が凄い。第1楽章の透徹した音楽、第2楽章の諧謔、第3楽章のスピード感、いずれをとってもムラヴィーンスキイの本領が発揮された名演。オーケストラの名技にも舌を巻く。しかもこれでライヴとは!全編をつらぬく勢いと緊張感において、出色の演奏。もちろん、同じムラヴィーンスキイ/レニングラードPO(Melodiya)1972年のライヴ盤も素晴らしい。こちらは一段とスケールの大きい、風格のある演奏。第1楽章の(ムラヴィーンスキイにしては)ゆったりとしたテンポも説得力に満ちている。第2、3楽章はその快速なテンポにもかかわらず、自然で落ち着いた音楽になっている。もちろん、そこに凝縮された音楽的意味は異常なまでに深いものであるが、この曲のアプローチとしては1965年のライヴ盤の凄まじい勢いの方が好ましいように思われる。終楽章のヴァイオリン・ソロは、こちらの方が出来が良い。

ベリルンド/ボーンマスSO(EMI)盤も内容ではムラヴィーンスキイに匹敵するものを持つ。自然で無理のないテンポ設定から繰り出される音楽の流れが傑出している上に、熱い共感に満ちた燃焼度の高さも際立つ。ベリルンドの解釈はこの作品の魅力を実に素直な形で描き出している。オーケストラの技術的な限界は散見されるものの、音楽的な価値を傷付けてはいない。文字通りあらゆる演奏の規範となる必聴の名演。

もう一つ、K. ザンデルリンク/ベルリンSO(Deutsche Schallplatten)盤も名演で、内容のぎっしりとつまった、極めて充実した演奏。派手さとは無縁だが、全ての音に深い意味が盛り込まれており、まさに息もつかせずに聴かせてくれる。特に第1楽章に関しては、ムラヴィーンスキイをも凌ぐ。典型的なドイツ・サウンドも渋くて、この曲によくマッチしている。

西側の演奏家によるものでは、ハイティンク/アムステルダム・コンセルトヘボウO(London)盤が、すみずみまで丁寧に仕上げられた秀演。オーケストラの美しい響きと、ハイティンクの確かな造形力が光る。ロシア風のアクの強さとは無縁だが、奇を衒わないテンポ設定と歌い回しが、素直にこの作品の真価を味あわせてくれる。あえて注文をつけるならば、第1楽章には更なる深い情感を、第2楽章にはもっと鋭い皮肉が欲しいところ。とはいえ、十分に魅力的な演奏である。似たような傾向の演奏ではあるが、プレヴィン/ロンドンSO(EMI)盤も良い。地に足のついた、格調高い立派な演奏で、オーケストラが無理なく意味深い音を積み上げているのに感心する。全体に爽やかな抒情が支配しているが、それに溺れてしまわない節度にプレヴィンのセンスの良さを感じる。嫌味の感じられない響きも、広く受け入れられることだろう。もちろん、曲の魅力は全く損なわれていない。

ハイティンク盤、プレヴィン盤ともに魅力的で立派な演奏ではあるのだが、筆者の個人的な趣味としては、やはり泥臭いロシアン・サウンドを求めたいところ。その意味で申し分ないのは、ロジデーストヴェンスキイ/ソヴィエト国立文化省SO(Melodiya)盤。曲の本質をしっかりと捉えた充実した秀演で、特に第2楽章以降が楽しい。第3楽章コーダのティンパニの超強打みたいなアクの強い響きに耳を奪われがちだが、巨象がダンスしているような独特のリズム感や、刺激的な楽器間のバランスなど、聴けば聴く程巧妙な仕掛けに感心させられる。強烈な音響にひるむことなく、耳を傾けたい演奏である。コンドラーシン/モスクワSO(Melodiya)盤も、このコンビらしい勢いに満ちた秀演。特に後半2つの楽章が出色の出来。厳しいながらもどこか野暮ったさを滲ませた独特のスピード感が、この作品の本質を図らずも描き出している。細かい瑕が皆無とは言えないが、なかなか魅力的な演奏。ただ、第1楽章はやや一本調子にすぎるか。この4年前に収録されたコンドラーシン/アムステルダム・コンセルトヘボウO(Philips)のライヴ盤は、颯爽としたテンポで荒々しい響きを引き出すコンドラーシンらしい演奏。ロシアのオーケストラでない不満をほとんど感じさせない。ライヴゆえの瑕が散見されるものの、第1楽章の多彩な表情はスタジオ録音を凌ぐ。コンドラーシン/モスクワSO(Altus)の東京ライヴも秀逸。歴史的な価値は言うまでもないが、純粋に演奏内容だけを考慮しても一級品。一見素っ気無さを感じさせる流れの中に、ともすれば野暮ったくなりかねない濃厚な歌が息づいている。全体にスケールの大きな名演で、細かい瑕を気にさせない説得力と確信に満ちた音楽が素晴らしい。ティンパニに代表される強烈な打ち込みにも、単なるローカル色の発現にとどまらない意味深さがある。録音状態は万全ではないが、この作品の魅力を十分に伝えてくれる。テミルカーノフ/レニングラードPO(Melodiya, LP)も地に足のついた、充実した秀演。細部まで丁寧に磨き込まれたオーケストラの名技と、それを堅実かつスケール大きくまとめあげるテミルカーノフの手腕が見事。ロシアの演奏家ならではのアクの強さを失うことなく、決して奇を衒うことのないスマートな音楽作りが光る。この作品の模範的な演奏と言えるだろう。

非常に個性的なのが、フェドセーエフ/モスクワ放送SO(Canyon)の1997年盤。同じコンビによる1992年の旧盤(Musica)と比較して、その音楽の深まりに驚かされる。テンポ自体は若干遅くなっているのだが、密度が非常に高いので退屈することがない。第1楽章の雄弁さは特に素晴らしい。何と大きなスケールの音楽なのであろうか。各奏者の名技も堪能できる。そして、オーケストラの響きの美しいこと!個人的にはもっと早いテンポを望みたい第2楽章も、全ての音符が丁寧に弾き込まれており、このテンポでなければならないという強い説得力を感じる。第3楽章だけは、あまりにエキセントリックに過ぎて、筆者には受け入れることができない。ただし、細かい部分に凝っているので、それなりに楽しむことはできるのだが…。

ムラヴィーンスキイ盤
(Victor VICC 40118/23)
ムラヴィーンスキイ盤
(BMG 74321 25198 2)
ベリルンド盤
(EMI CDS 7 47790 8)
K. ザンデルリンク盤
(Deutsche Schallplatten
32TC-262)
ハイティンク盤
(London POCL-9255/66)
プレヴィン盤
(EMI CDM 7 69564 2)
ロジデーストヴェンスキイ盤
(Victor VICC-40001/11)
コンドラーシン盤
(Victor VICC-40094/103)
コンドラーシン盤
(Philips 438 283-2)
コンドラーシン盤
(Altus ALT046)
テミルカーノフ盤
(Melodiya C10-09675-76, LP)
フェドセーエフ盤
(CANYON PCCL-00401)

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Last Modified 2008.05.13

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