名盤(交響曲第13〜15番)


交響曲第13番変ロ短調 作品113

1961年9月19日。『文学新聞』紙上に「バービイ・ヤール」という詩が発表された。バービイ・ヤール(女たちの谷という意味)とは、大祖国戦争中、ドイツ軍によって周辺のユダヤ人が大量虐殺されたキエフ郊外の場所である。当時28歳の新進詩人だったエヴゲーニイ・アレクサーンドロヴィチ・エフトゥシェーンコがこの地を訪れたのは、1961年9月初め、19回目の虐殺記念日直前のことだった。自身による『早すぎた自叙伝』の中で「この詩の出版は過去二十年にわたる詩人としての生活のなかでもっとも重要な節目となるだろう」と語ったこの詩は、まさに雪どけ期のソ連だからこそ出版が可能になった(とはいえ、何の問題もなく出版にこぎつけたわけではない)政治的に大きな問題を孕んだ作品であった。この詩で告発されていた内容は、単にドイツ軍のファシズムの脅威ではなく、普遍的な(そして当時のソ連に蔓延していた)反ユダヤ主義だったからだ。すなわち、バービイ・ヤールの真実を描くことは、ソ連の恥部を暴くことだったのである。

発表直後から、この詩は大反響を得た。もちろん熱狂的な支持もあったが、当然ながら公式筋からは猛烈な批判を受けた。当時のエフトゥシェーンコについて、ヴィシネーフスカヤは次のように語っている:

エフトゥシェンコはまだ若くて衝動的だった。彼にはまだ自己抑制が欠けていたのだ。彼の詩「バービー・ヤール」はたった一日で彼をオリュンポス山の高みに引き上げていた。彼は得意の絶頂にあり、その作品のためにおおいに賞讚されていることを承知していたので、反逆者のような大胆さを誇示していた。だがそういうことならば彼にはそれだけの理由があった。それは驚くべき詩であったのだ。(ガリーナ自伝, p. 304)

1955年にバービイ・ヤールの地を訪れたことのあるショスタコーヴィチが、この詩とその作者に関心を持ったのは当然のことであろう。ショスタコーヴィチとエフトゥシェーンコとの最初の出会いについては明らかではないが、彼は、友人の作曲家シェバリーンに宛てて次のような手紙を書き送っている:

入院中に、第十三交響曲にとりかかった。もっとくわしくいえば、これはたぶん五つの楽章から成る合唱=交響組曲となるだろう。演奏は、バス・ソリスト、バス合唱団、それに交響管弦楽団による。この作品のために、わたしはエヴゲニー・エフトゥシェンコの詩をもちいた。この詩人と親しくなって、この人が大きな人で、そして大事なことは思索的な才能の人だということがわかってきた。わたしたちは親交をふかめた。そして彼は非常にわたしの気にいった。彼は二十九歳である(ほんとうに!)。こういう若い人びとが文学界に現われることにまさるほどの大きな喜びはない。(シェバリンへの手紙から『シェバリン』1975年, p. 166:ショスタコーヴィチ自伝, pp. 337-338)

当初は合唱付き交響詩のような形で構想されていた、後に第一楽章となる「バービイ・ヤール」は、1962年3月にさしたる苦労もなく完成された。その後、様々な雑事で時間を取られていたショスタコーヴィチは、持病である右手の神経症(頸胸椎多発性神経炎という診断だったらしい)の治療のため1962年7月21日までモスクワ郊外クンツェヴォの病院に入院した。入院中に読んだエフトゥシェーンコの詩集『両手をふりあげ』が、残りの楽章の題材を提供した。一見ばらばらに見える素材を、ショスタコーヴィチは独特の手法で一つの作品にとけ込ませた。これには、エフトゥシェーンコも驚嘆したという。第二楽章「ユーモア」は7月5日、第三楽章「商店にて」は7月9日、第四楽章「恐怖」は7月16日、第五楽章「出世」は7月20日に完成した。右手の具合いが悪かったのにも関わらず、驚くべき速度でスコアが書き上げられた。第四楽章の「恐怖」だけは、この交響曲のために詩が書き下された(エフトゥシェーンコは当初「呪文」という題名をつけていたが、ショスタコーヴィチがより適切な「恐怖」という題名をつけたといわれる)。

完成後、ショスタコーヴィチ自身が弾き語りの形で、仲間内の試奏を何度か行なった。その場に居合わせた何人かの回想が残されている。コンドラーシンは次のように語っている:

…ドミートリー・ドミートリエヴィチが私のところに電話をかけてきて、言いました。

「キリル・ペトローヴィチ、わたしはやっと新しい交響曲を書き上げました。私のところへ聞きに来てください。」

私は彼のところへ行きました。私のほかに、アラム・イリイチ・ハチャトリヤン、モイセイ・ヴァインベルグ、レヴォリ・ブーニンたちがやって来ました。全員で、八人から十人くらいでした。

五つの楽章からなる交響的連作のための一風変わった作品を書いたとドミートリー・ドミートリエヴィチは皆に伝えました。五つの詩のテキストはエフトゥシェンコでした。一つの考えで統一されているので、この曲は交響曲であると彼は考えていました。

「それでは今から私が演奏します、おそらく上手くは弾けないでしょう。」

さらに彼は付け加えました。

「それから自分で歌います。まず初めに歌詞を朗読します。」

彼はそれぞれの楽章に入る前に、エフトゥシェンコの詩を読みました。まず第一楽章、それから第二楽章、第三楽章、第四楽章、第五楽章が演奏されました。彼の不完全な演奏でも、この曲は響きわたり、皆は物音一つ立てませんでした。ようやくアラム・イリイチが目に涙をうかべて立ち上がり、言いました。

「ミーチャ、これは信じられないよ。」(ショスタコーヴィチ、ソヴィエト音楽のメシア:日本ショスタコーヴィチ協会会報, 1996, p. 19)

ヴィシネーフスカヤは次のように語っている:

一九六二年秋にドミートリー・ドミートリエヴィチは、新しい交響曲『第一三番』を聞かせようと私たちを自宅に招いてくれた。ほかに出席していたのは、作曲家のアラム・ハチャトゥリャーンとモイセーイ・ヴァーインベルグ、指揮者のキリール・コンドラシン、そして詩人のエヴゲーニー・エフトゥシェンコであった。……

ドミートリー・ドミートリエヴィチはすぐれたピアニストであり、病のために不可能となるまでは、いつも友人に自分の新作をみずからピアノを弾いて聞かせていた。その秋の夕べに彼はピアノの前に座ると、序奏を演奏し、静かに歌いはじめた。

バービー・ヤールにはどこにも記念碑がない……

私たちが居合わせているところでショスタコーヴィチの新作がまたもや生まれ出てくるとき、いつも私は秘密の儀式に参加しているような気持ちになった。その曲の冒頭数小節が開始すると共に、私たちはだれもが重苦しい悲劇的な予感にみちた雰囲気に心を奪われたのである。ドミートリー・ドミートリエヴィチは静かに歌いつづけた。

いまぼくはユダヤ人であるような気がする。
ここでぼくは古代エジプトをとぼとぼと歩くのだ。
ここでぼくは十字架にかけられて死に、
今日に至るまでその釘の傷跡がある。

ショスタコーヴィチの音楽がつけられると、だれもが知りぬいているこの詩は次第に世界的な規模となり、赤熱の鉄のように燃えた。私は彼の肩に血を、「釘の傷跡」を想像することができ、私の髪は逆立った。……

ぼくはドレフェスであるような気がする、
ペリシテ人は密告者であると共に裁判官なのだ。

彼はちょっと間をおいた。そうした言葉をショスタコーヴィチの口から聞くのはなんと恐ろしいことか!それから彼は演奏を続け、今度は歌うというよりも叫んでいた。

ぼくは獄中にいる。周囲を敵に取り囲まれて。
激しく追跡され、侮辱され、中傷され……

彼はふたたび間をおき、まるで呼吸を止めてしまったかのように沈黙した。それから彼は一語一語を強調しながらその詩句を繰り返した。

激しく追跡され、侮辱され、中傷され……

そうだ、ショスタコーヴィチが好んで歌詞を添えた作品を当局が用心深く検閲していたのには、十分な理由があったのだ。彼が自分の経験したことしか書かないことを当局は知っており、それゆえ歌手の声をつうじて真実を語る機会を彼にあたえるのがこわかったのである。もしも音楽に歌詞がなければ、いかなる内容でも―まったく偽りのものですら―創作してかまわないが、歌の歌詞は否定の余地のない声明をおこなうのだ。

私たちはみんなでドミートリー・ドミートリエヴィチとエフトゥシェンコにお祝いの言葉を述べ、とても喜んでいたので、ショスタコーヴィチの新しい交響曲にどんな苦悩が待ち構えているのかは考えもしなかった。(ガリーナ自伝, pp. 304-305)

こうした試奏の一つに同席した作曲家のヴェニヤミン・バースネルは、ショスタコーヴィチに無断で、ショスタコーヴィチの演奏を録音したらしい。まず可能性はないだろうが、できることなら一度聴いてみたいものだ。11月6日にショスタコーヴィチの自宅での試奏(コンドラーシン、ヴィシネーフスカヤ共に、この日のことを語っているのかもしれない)をきいたハチャトゥリャーンは、雑誌『ソヴィエト文化』に次のようなコメントを寄せている:

交響曲第十三番が室内演奏という枠にありながら、かつてない巨大な印象を引き起こしたことを言わずにおくことはできない。誇張などここにはかけらさえもありえない。これは偉大な芸術家のまことに偉大な作品である。……

そう、偉大なというのは、だれあろう、わが国の最高峰をしめる作曲家ショスタコーヴィチが、言うなれば、とりわけ鋭敏で「コンセプチュアルな」時代感覚をもちあわせ、そのなかで、芸術家はまことの愛国的市民として登場しているからだ。

交響曲第十三番は、わがソビエトの現実に対するきわめて有効かつストレートな芸術による心のこだまである。思うに、その音楽的イメージは、ソビエト人のモラルの規範というテーマを扱い、その高い倫理的規範を確立するものである。そして私たちはみな、ショスタコーヴィチをうらやまねばならない。(驚くべきショスタコーヴィチ, pp. 71-72)

本作品は、このように完成直後から大きな関心を引き起こしたものの、初演にこぎつけるまでの道程は決して平坦なものではなかった。まずは指揮者の問題であった。

初演の指揮をうけもつのはレニングラードのムラヴィンスキーだというのは明白なことでした。これには誰も疑問を持ちませんでした。(ショスタコーヴィチ、ソヴィエト音楽のメシア:日本ショスタコーヴィチ協会会報, 1996, p. 19)

コンドラーシンが語る通り、ショスタコーヴィチは既に夏の内にムラヴィーンスキイにこの作品のスコアを渡していた。レニングラード郊外のウスチ・ナルヴァで休暇を取っていたムラヴィーンスキイは、休暇中にこの作品を勉強することをショスタコーヴィチと約束したと言われる。しかしながら、ムラヴィーンスキイからの返答は、「自分が惹かれるのは“純粋に”期学的な形式の交響曲だけだ」という断りであった。当時、最初の妻を病気で亡くし、後妻との時間を過していたムラヴィーンスキイがどのような態度でこの作品に接したのか、詳しいところは分かっていない。休暇に入るにあたって、スコアを忘れていったとの説もある。もちろん、政治的な圧力という可能性も捨てきれないだろう。いずれにしても、このことをきっかけとして、ショスタコーヴィチとムラヴィーンスキイとの友情は終ってしまう。

ショスタコーヴィチが白羽の矢を立てたのが、交響曲第4番作品43の初演を成功させたコンドラーシンであった:

…彼が私のところに電話をかけてきて、来てくれるように頼みました。

「キリル・ペトローヴィチ」彼は言いました。「あなたにお願いしたいことがあります。もしあなたが、もちろん異存がなければですが、あの交響曲を気に入ってくださったのなら、初演をして頂けないでしょうか。」

いうまでもなく私はとても当惑してしまいました。これは私にとって大変名誉なことですと私は答え、なぜムラヴィンスキーでないのか尋ねようともしませんでした。(ショスタコーヴィチ、ソヴィエト音楽のメシア:日本ショスタコーヴィチ協会会報, 1996, p. 19)

問題はバス歌手であった。ショスタコーヴィチは、当初からボリース・グムイリャーに初演を任せることを望んでいた。グムイリャーは「E. ドルマトーフスキイの詩による5つの歌曲」作品98の初演者であった(立派な録音も残している)。第一楽章の完成から二ヶ月後の6月19日、彼はグムイリャーにソロを依頼する。ウクライナ人であるグムイリャーは散々悩んだ挙げ句、次のような断りの手紙を送る:

あなたの第十三番の交響曲について私はウクライナ共和国の指導部に助言を求めました。エフトゥシェンコの詩『バービイ・ヤール』の演奏は、断固認められないというのが、私に対する指導部の答えでした。こうした状況のもとで、当然のことながら、交響曲の演奏をお受けすることはできません。まことに残念ですが、そのことをあなたにお伝えします。(驚くべきショスタコーヴィチ, p. 76)

ショスタコーヴィチは、ヴィシネーフスカヤに歌手探しの依頼をする。彼女は、ボリショイ劇場のアレクサーンドル・ヴェデールニコフを推薦した。ヴェデールニコフは一旦喜んで引き受けたものの、当局の圧力ですぐに辞退する。ショスタコーヴィチは、イヴァーン・ペトローフも候補に挙げたが、コンドラーシンの「彼はあまり積極的に取り組まないのではないでしょうか。この曲は五つの楽章ですから、覚えることがたくさんあります」との意見で候補からはずされた(このコンドラーシンの意見は、叙事詩「ステパーン・ラージンの処刑」作品119の時に、図らずも証明されることとなった)。結局、ヴィシネーフスカヤとコンドラーシンが共に推薦したのがボリショイ劇場の若い歌手ヴィークトル・ネチパイロであった。彼は熱心に作品に取り組み、ショスタコーヴィチも彼を信頼していたという。モスクワ・フィルハーモニー協会の芸術監督モイセーイ・アブラーモヴィチ・グリーンベルグは、コンドラーシンに対して、不測の自体に備えて代役を用意しておくように助言した。それが、音楽院を卒業したばかりのヴィターリイ・グロマーツキイであった。

決して順風満帆とは言えなかったものの、初演の準備は着々と進められた。フルシチョフが抽象絵画を見て「ロバのしっぽ」であると罵倒したのは、丁度この頃である。初演の前日1962年12月17日、フルシチョフ同席の元、第一線の文化人と党中央委員会イデオロギー部門トップのイリイチェフとの第二回会談の席上で、エフトゥシェーンコの「バービイ・ヤール」が槍玉に挙げられた。もはや、「雪どけ」期ではなかった。

予定されていた初演当日の12月18日、致命的な問題が起こった。ネチパイロが歌えないというのである。なぜ歌えなかったのか、ヴィシネーフスカヤとコンドラーシンの回想の間には相違がある。

コンサートの日の朝早く、ドレスリハーサルの直前に、とつぜんネチパイロは私の自宅にうろたえながら電話をかけてくると、今夜はボリショイでの出演が予定されているので『第十三交響曲』は歌えないと言った。これは新しい手だった。私も舞台裏でのかけ引きは知りぬいていたが、それだけは予知できなかったであろう。

名前が掲示板に出た歌手―出し物は『ドン・カルロ』だったと思う―は《病気になる》ように命じられたわけで、それは『第十三交響曲』の初演に出演するのを断わることで当局に協力するつもりはなかったネチパイロが、その晩はボリショイの公演に代理を勤めざるをえないようにするためであった。それは十分に準備された打撃であり、今回は当局が初演を妨害するのに成功したかに思われた。(ガリーナ自伝, p. 309)

一方、コンドラーシンの方は、もっと単純だ:

朝ネチパイロが電話をかけてきて言いました。

「声が出なくて歌えません。」

「四つん這いで這ってでもいいから、来てくれ。」

「できません。」

しかし彼は、政治的意味ではなく、発声の点で内気な臆病者でした。本当に彼は病気でした。しかしどんな歌手でも追い詰められれば集中して歌うことができます。もちろんこの場合彼が臆病者を祝福したのは、彼が制裁を恐れていたからではなく、たくさんの人の見守る中、調子の悪い声で歌いたくなかったからでしょう。ただそれだけです。(ショスタコーヴィチ、ソヴィエト音楽のメシア:日本ショスタコーヴィチ協会会報, 1996, p. 21)

いずれにしても、ネチパイロはゲネプロに現れなかった。コンドラーシンは、すぐさまグロマーツキイを呼びに使いを走らせた。彼は、電話のない郊外に住んでいたのだが、何とか見つかり、ゲネプロを(若干のミスはあったものの)無事に歌い終えた。ゲネプロの途中、ショスタコーヴィチとコンドラーシンは各々党の高官から呼び出しを受けたが、断固として初演を行なうことを告げた。そして夕方、交響曲第13番がモスクワ音楽院大ホールに鳴り響いたのだった。初演は非常に大きな反響を呼んだ。当然のことながら、マスメディアはいくつかの批判的な批評を除いて完全に黙殺したが。

しかし、この作品の受難は、これだけでは終らなかった。初演の二週間後、エフトゥシェーンコが『文学新聞』紙上に「バービイ・ヤール」の改訂版を発表する。交響曲を救うためであったのか、それとも政治的に譲歩したのかは分からないが、エフトゥシェーンコは第一楽章中の八行を新たに書き直した(ただし、この修正の詳細はよくわかっていない)。

「私はいったいどうしたらいいのでしょう。」ショスタコーヴィチは言いました。「エフトゥシェンコはひどいことをしたものです、これではこの曲は私たち共同の作品といえるでしょうか。新しい版を書くなら、せめて私に言って相談してくれれば。私はもう新しい楽章を書くことはできません。そんなことをすれば第1楽章は最初より二倍も長くなって、いっそう注目を集めるだけです。形から言っても釣り合いません、どうしたらいいのでしょう。」

「ドミートリー・ドミートリエヴィチ、私にもすでに電話がありました。申し入れに応えて第1楽章を改訂するのか、あなたの考えをきかせてください。」(クハルスキーから電話があったのだ。)

「改訂はしない。」

「ドミートリー・ドミートリエヴィチ、怒りをかうようなことはしてはいけません。交響曲を救いましょう。必要なのは曲を演奏することです。考えてみてください。新しい版から何行か取って、どこかそれほど重要でないところにそれを挿入しましょう。」

「どうしよう。考えてみます。」(ショスタコーヴィチ、ソヴィエト音楽のメシア:日本ショスタコーヴィチ協会会報, 1996, p. 22)

コンドラーシンは、ショスタコーヴィチがもう一度第一楽章を書き直すことができないこと、そして元の形のままでは決して演奏が許可されないということを考えて、ショスタコーヴィチにこのような変更を進言したのである。結果、各四行ずつ二カ所の歌詞が変更された(しかし、自筆譜にはその変更を書き込まなかった)。音楽上の変更は最小限で、ロシア語を解さない外国人にはスコアを見ずに変更個所を聴き取るのはそれほど簡単なことではないだろう。ともあれ、この変更のおかげで翌1963年2月10日、交響曲第13番は再演された。

その後1967年に、コンドラーシンによる初録音(1965年11月20日(おそらく9月20日の間違い)のライヴとされる録音(1963年2月10日の改訂版初演ライヴの可能性も高い)がアメリカのEverestレーベルから発売されたが、これは海賊盤)がエイゼンを独唱者として行なわれた。この直前にエフトゥシェーンコは「恐怖」の改訂版を発表するが、もはやショスタコーヴィチもコンドラーシンもこの変更には目もくれなかった。彼らはオリジナルの形で録音しようとしたが、当局の圧力で結局は改訂版での演奏が収録された。

このように極めて政治的な背景を持った作品であるが、その音楽はショスタコーヴィチの本領が遺憾なく発揮された、ショスタコーヴィチの最高傑作といって良い素晴らしい作品である。強靭な精神力と繊細な美しさが、詩にさらなる生命を与えている。ショスタコーヴィチの全作品中、筆者が最も好きな作品。巨大な第一楽章、圧倒的な力に打ちのめされる第二楽章、悲痛な叫びと共に人間的な温もりを感じさせる第三楽章、背筋の凍るような第四楽章、不思議な明るさと割り切れなさを持った第五楽章。尋常ならざる完成度で、ショスタコーヴィチの交響曲のエッセンスが詰め込まれている。ショスタコーヴィチの世界に慣れた聴き手には、是非とも聴き込んで欲しい。

曲の内容と編成の大きさ、言語の問題などから、録音の数は少ない。その中でも永遠に忘れることのできない演奏がエーイゼン(B)、コンドラーシン/モスクワPO他(Melodiya)盤だろう。上述したように改訂版による演奏だが(ちなみに後に挙げる録音はすべて原典版である)、その演奏の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。ショスタコーヴィチ作品の全録音、そしてコンドラーシンの全録音中でも間違いなく筆頭に挙げられる凄絶な大名演である。テンポから音色に至るまで、あらゆる要素に全て納得させられる。録音の悪さまでもがこの音楽に欠かざる要素であるように聴こえてくる。全ての音に強烈な意志と魂が込められ、聴き手に無意識でいることを許さない。この作品の持つ恐ろしさ、強さ、美しさが完璧に表現されている。全身全霊を込めたエイゼンの独唱も凄いが、男声合唱の素晴らしさも特筆に値する。時に絶叫と言ってよい歌唱でありながら決して音楽性を失わない。ショスタコーヴィチ・ファンのみならず、全人類必聴の名盤である。コンドラーシンが西側に亡命した後のライヴ録音であるシャーリー=カーク(B)、コンドラーシン/バイエルン放送SO他(Philips)盤も素晴らしい。典型的なドイツの響きだが、見事にショスタコーヴィチ独特のアクが引き出されている。早めのテンポから導かれる極度に引き締まった音楽は、この作品の本質を余すところなく表現している。演奏の精度もライヴとは思えない程立派なものであり、このオーケストラ独特のホルンの音色も素晴らしい。西側の演奏団体によるものとしては、もっとも満足のいく名演。特典盤として一度だけCD化されたことがあるが、一般に広く入手できる形での再発売が切望される。歴史的な価値という観点からは、グロマーツキイ(B)、コンドラーシン/モスクワPO他(Russian Disc)による初演2日目のライヴ録音を超えるものはないだろう。どこか落ち着かない客席のノイズが、否が応にも当時の雰囲気を伝えてくる。細かいアラは数多くあるが、演奏は極めて高い水準のもの。特にオーケストラと合唱の音色は抜群で、録音の悪さを超えて迫ってくる。ただ、後年の録音に比べると、表現が全体に直線的なのは致し方のないところであろう。グロマーツキイは万全の出来とは言えないものの、無難にこの大役を果している。一方、グロマーツキイ(B)、コンドラーシン/モスクワPO他(Moscow State Conservatory)による改訂版の(おそらく初演)ライヴ録音も資料的価値は抜群。しかしながら、このコンビならではのアクの強さは相変わらずなものの、録音状態が影響しているのか、初演ライヴの昂奮に比べると大分大人しい演奏になっている。オーケストラの集中力も今一つで、ミスがかなり多い(特にティンパニ)。グロマーツキイの独唱も自由というよりはかなり勝手気ままなもので、演奏全体が散漫な仕上がりになっているのが惜しい。

サフィウーリン(B)、ロジデーストヴェンスキイ/ソヴィエト国立文化省SO他(Melodiya)盤も優れた演奏。オーケストラには粗い部分が散見されるが、アクの強い凄絶な音楽は大変素晴らしい。肺腑をえぐるような鋭いアクセントだけではなく、戦慄を覚えずにはいられない密やかな弱奏部も凄い。地に足のついたリズム感で、どっしりとした仕上がりながらも決して鈍重にはなっていない。音楽のスケールも大きく、聴き応えのある名演。デジタル録音と称しているわりに録音が悪いのには閉口するが。

他に、ミクローシュ(B)、M. ショスタコーヴィチ/プラハSO他(Supraphon)盤もなかなか良い。ゆったりとした風格の感じられる演奏で、すみずみまで気持ちが入っているのが素晴らしい。時折マクシームの唸り声も聴こえるが、その気合いが空回りすることの多いマクシームにしては珍しく(?)充実した内容を引き出すことに成功している。オーケストラの仕上がりも申し分なく、スケールの大きさと響きの美しさを感じさせる佳演となっている。男声合唱にもう少し力強さが欲しいことと、さらに尋常ならざる緊張感を求めたいところだが、全体的には良い演奏だといえるだろう。バイコフ(B)、ゾンデキス/サンクト・ペテルブルグ・カメラータ&リトアニアCO他(Sony)盤が良い意味で“軟派”な演奏で面白い。全体にしっとりとした美しさが強調され、ロシア風の音色を残しながらも決して粗くなることがない。各部分を取り上げると物足りないところも多いが、全体を通して聴くとこの曲が持つ後期作品特有の艶かしい美しさを堪能することができる。筆者の趣味とは違うが、個性的で立派な演奏である。

一方、西側の演奏家によるものにも幾つか優れた演奏がある。ペトコフ(B)、プレヴィン/ロンドンSO他(EMI)盤は格調の高い、美しい演奏。男声合唱の声質に物足りなさを覚えるものの、オーケストラの音楽は実に力強く、それでいて気品すら感じられるのが素晴らしい。独唱も立派。荒々しいまでにメッセージをぶつけてくるような演奏ではないが、じっくりと耳を傾けると切実なメッセージがしっかりと聴こえてくる。また、自然と耳を傾けさせられるような力のある演奏である。西側初のショスタコーヴィチ交響曲全集を作ったリンツラー(B)、ハイティンク/アムステルダム・コンセルトヘボウO他(London)も、独唱、合唱共に声楽の軽い響きが気になるが、オーケストラは素晴らしい出来である。派手な音響や演出とは無縁な、言ってみれば非常に地味な演奏だが、曲の本質をしっかりと捉えた力強さと美しさに満ちた秀演である。各楽章の内容を深く抉り出しただけではなく、交響曲としての造形にも秀でていて大変素晴らしい。

最近の録音では、レイフェルカス(B)、マズア/ニューヨークPO他(Teldec)盤が泥臭さとは無縁の、洗練されたスマートな演奏。特にレイフェールクスの名唱が光る。ライヴ録音だが、おそらく修正も数多く入っているのだろう、瑕は全くと言ってよいほどない。どこか無色透明で鋭く澄んだ響きが印象的で、居ても立ってもいられなくなるような興奮とは無縁ながらも、立派なたたずまいを持った佳演。エフトゥシェーンコ自身による「バビ・ヤール」の朗読も収録。

コンドラーシン盤
(Victor VICC-40094/103)
コンドラーシン盤
(Philips 27PC-54, LP)
コンドラーシン盤
(Russian Disc RD CD 11 191)
コンドラーシン盤
(Moscow State Conservatory
SMC CD 0018)
ロジデーストヴェンスキイ盤
(Victor VICC-40001/11)
M. ショスタコーヴィチ盤
(Supraphon SU 0160-2 231)
ゾンデキス盤
(Sony SMK 66 591)
プレヴィン盤
(EMI 7243 5 73368 2 6)
ハイティンク盤
(London POCL-9255/66)
マズア盤
(Teldec WPCS-4036)

交響曲第14番ト短調 作品135

1969年3月2日にモスクワの自宅で完成され、同年9月29日レニングラード・フィルハーモニー大ホールにて初演された。管弦楽はルドルフ・ボリーソヴィチ・バルシャーイ指揮モスクワ室内管弦楽団。独唱者については若干の混乱が生じているが、初演の権利を巡って二人のソプラノ歌手が険悪な状態になったため、バルシャーイの提案によってレニングラードとモスクワの初演は各2回の公演から構成されることとなった。先の公演を担当したのはガリーナ・パーヴロヴナ・ヴィシネーフスカヤとマーク・レシェティン、後の方はマルガリータ・ミロシニコーワとエフゲーニイ・ウラジミロフであった。なお、この初演に先立つ同年6月21日、モスクワ音楽院小ホールにて関係者だけの試聴会が行なわれている。この“非公式”初演とでも言える演奏会で独唱を担当したのは、ミロシニコーワとウラジミロフである。当初ショスタコーヴィチは独唱者にヴィシネーフスカヤを考えていたようだが、多忙のため準備の進まない彼女に対し、自らの健康上の不安から死の恐怖にさらされていたショスタコーヴィチは一刻も早く実際の演奏を聴きたかったために、代役としてミロシニコーワを選んだことが、この騒動の原因だった。初録音は、やはりヴィシネーフスカヤのスケジュール上の問題でミロシニコーワとウラジミロフのペアによって行なわれている。

この“非公式”初演では、第5楽章「用心して」の演奏中に、パーヴェル・アポーストロフが心臓麻痺を起して倒れ、死亡するというアクシデントがあった。あのジダーノフ批判が行なわれた1948年、アポーストロフは中央委員会音楽部門のメンバーだった。彼は、長年に渡りショスタコーヴィチを迫害し続けていたのだった。非常に象徴的な事件で、しばらくは関係筋で話題になったらしい。もちろん、ショスタコーヴィチはこのアクシデントを不愉快に思ったことは言うまでもない。

この交響曲は、1961年にムーソルグスキイの「死の歌と踊り」のオーケストレイションを行なったことがきっかけとなって着想された。

たぶんあなたがたは、わたしが死のような苛酷な恐ろしい現象にこれほど多くの関心をどうして急に向けるようになったかに興味をいだかれることであろう。それはわたしがもう大いに年をとったからでもなく、わたしの周囲に、いわば砲兵の用語をつかうと、砲弾がふりそそいで、友人・近親者を失ったからでもない。……わたしは、その作品のなかで死のテーマをあつかっている大芸術家たちといくらか論争してみたいのである。……たとえばボリース・ゴドゥノフの死を思いうかべてみよう。ボリース・ボドゥノフが死に瀕したとき、何か平静なものが訪れる。ヴェルディの「オセロ」をみてみると、すべての劇がおわりをつげ、デスデモーナもオセロも死んでしまったときにも、美しい安らかな音楽がひびきわたる。また「アイーダ」を思いだしてみると、主人公たちの悲劇的な死がおとずれるときには、明るい音楽が静かに鳴りわたる。こういったことはみな、わたしには、その生涯がいわばよくなかったとしても、人が死ぬときにはすべてよく、彼岸には全き平静さが待ちうけているのだとするさまざまな宗教から来ているような気がする。だから、ロシアの偉大な作曲家ムソルグスキーのひそみにならって、わたしも歩をすすめてみたいのである。たとえば、彼の声楽曲集「死の歌と踊り」はたぶん、また全部ではないにしても「司令官」は、死にたいする大きなプロテストであり、自分の生涯を誠実に、高雅に、清潔におくらなければならぬとする警告であると思う。……なぜならば、ああ、学者たちは、まだこれほど早く不死にまでは考えおよばないから。しかし死はわれわれを待ちうけている、例外なくすべての人を。われわれの生涯のこういう結末に、わたしはかくべついいものを見ない。このことについてこの作品で語ってみたいと思う。(『音楽生活』1969年第1号:ショスタコーヴィチ自伝, pp. 428-429)

1966年2月11日付けのイサーク・ダヴィードヴィチ・グリークマン宛の書簡にこの交響曲についての言及があるらしいが、最初の注目すべき作曲者自身の言葉は次のものである:

昨日、僕は新しい作品のピアノ・スコアを書き上げた。僕はそれをオラトリオとは呼ばないつもりだし、呼ぶこともできないだろう。オラトリオとするには合唱が必要だろうから。僕の作品には合唱は含まれない。2人の独唱者─ソプラノとバス─だけなんだ…。ひょっとしたら、それを交響曲とも呼ぶべきではないのかもしれない。生まれて初めて、僕は自分の作品に何と名付けたらよいのか迷っている。(グリークマン宛1969年2月17日付書簡:Wilson, E., SHOSTAKOVICH A Life Remembered, p. 411)

作曲は、モスクワのクレムリン病院に1ヶ月入院している間に行なわれた。入院中、インフルエンザが発生したために病院は隔離され、面会謝絶の状態になったことで、ショスタコーヴィチは読書に耽った。この経験を元に、1969年1月21日からスケッチが始められた。ショスタコーヴィチ自身は、テキスト選択の意図を次のように説明している:

僕の心の中に、愛と死に関わる事柄の間に永遠のテーマと問題が存在する、という考えが浮かんだ。愛というテーマについては、少なくともサーシャ・チョールヌイの詩「クロイツェル・ソナタ」の中ですでに目を向けている。死のテーマにはまだ触れていない。入院する少し前に、僕はムーソルグスキイの「死の歌と踊り」を聴き、死と対決する考えが成就されているのを聴いた。

僕は、その現象に甘んじているなどと言うつもりはない。僕は詩の選択を始めた。僕の選択はおそらく極めて無作為のものだ。でも、僕にはそれらが音楽を通して一貫性を与えられているように感じられる。僕は非常に速く作曲した。第14交響曲を書いている間、僕は常に何かが僕の身に起こるのではないかと恐れていた。僕の右手が動かなくなるのではないか、僕は急に盲目になるのではないか等とね。こうした考えは、僕に安らぎを与えることはなかった。(グリークマン宛1969年3月19日付書簡:Wilson, E., SHOSTAKOVICH A Life Remembered, p. 412)

ここで取り上げられているテキストは、フェデリコ・ガルシア・ロルカ(Federico García Lorca, 1889-1936, スペイン)、ギョーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire, 1880-1918, フランス)、ヴィルヘルム・キュヘルベケル(Wilhelm Küchelbecker, 1797-1846, ロシア)、ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke, 1875-1926, ドイツ)という4人の詩人によるものである。使用されている詩は全てロシア語、あるいはロシア語訳である。各楽章の題名は次の通り:

第1楽章:
「深きところより(De profundis)」ロルカ詩、I. トゥイニャーノワ訳
第2楽章:
「マラゲーニア(Малагенья)」ロルカ詩、A. ゲルスクール訳
第3楽章:
「ローレライ(Лорелея)」アポリネール詩、M. クディーノフ訳
第4楽章:
「自殺(Самоубийца)」アポリネール詩、M. クディーノフ訳
第5楽章:
「用心して(Начеку)」アポリネール詩、M. クディーノフ訳
第6楽章:
「マダム、ごらんなさい(Мадам, посмотрите!)」アポリネール詩、M. クディーノフ訳
第7楽章:
「ラ・サンテ監獄にて(В тюрьме Санте)」アポリネール詩、M. クディーノフ訳
第8楽章:
「コンスタンチノーブルのサンタンへのザポロージュ・コサックの返事(Ответ запорожских казаков константинопольскому султану)」アポリネール詩、M. クディーノフ訳
第9楽章:
「おお、デルヴィーク、デルヴィーク!(О, Дельвиг, Дельвиг!)」キュヘルベケル詩
第10楽章:
「詩人の死(Смерть поэта)」リルケ詩、T. シリマン訳
第11楽章:
「結び(Заключение)」リルケ詩、T. シリマン訳

この、一見とりとめなく感じられる11の楽章は、諸井 誠氏によると図14‐1のように構成されている。


図14‐1(音楽之友社編:ショスタコーヴィチ (作曲家別名曲解説ライブラリー15), p. 107)

マーラーの「大地の歌」と同様、“交響曲”なのか“連作歌曲集”なのかが問題になる本作品だが、ショスタコーヴィチ自身が述べている通り、巧妙に“交響的4楽章に統一”されていることがわかる。

各詩、詩の配列、そして音楽そのものが難解かつ深い内容を持っているだけに、本作品について言及するのは容易なことではない。ここでは、1969年6月21日にモスクワ音楽院小ホールで行なわれた非公式初演に先立ち、ショスタコーヴィチ自身が述べた言葉を引用するに留めておく。

わたしは全身まだ、この仕事の印象にひたりきっている……。〔第十四〕交響曲をわたしはかなり早く書きあげた。こんどの新しい作品の構想は長いあいだあたためられていたものであること、このテーマをはじめて思いついたのは一九六二年だったことからもこのことは説明がつく。当時わたしはムソルグスキーの声楽曲集「死の歌と踊り」を交響曲に編曲していたが、これは偉大な作品で、わたしは常にこの曲に敬服してきたし、いまもしている。そして、全部で四曲にすぎないというその短さが、あるいは「欠点」となっていはしまいかとふと思った。

けれでもそれは大胆すぎるのではないか、しかしそれを続けてみようかという考えが浮かんできた。だが当時は、このテーマにどう近づけばいいか全く見当がつかなかった。それからわたしは、わが国内外の古典音楽家たちの偉大な作品をすべてあらためて聞きなおしたのち、もう一度このテーマに立ちもどった。

これらの作品のなかに、愛とか生とか死とかの「永遠の問題」がいかに偉大な英知や芸術的力をもって解決しているかに感嘆したが、こんどの新しい交響曲のこの問題へのアプローチはそれとは全く別である。

わたしはニコライ・オストロフスキーのこういう言葉に非常な親しみをおぼえる。「人間にとって最も貴重なことは生きることである。命はたった一回かぎりなのだから、目的なしにすごした年月に痛みを感じないように、卑小な過去にはほぞをかまないように、死ぬまぎわになって自分の全生涯、全力を世界でもっとも美しい、人類の解放のためのたたかいに捧げたといえるようにすごさなければならない」。

イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリットゥンに捧げたわたしの新しい交響曲に耳かたむける聴衆が、このことを考えてくださるようにとわたしは願ってやまない。そして自国民と祖国の名誉にかけて、わが社会主義社会を前進させる最良の進歩的思想の名誉にかけて、誠実に、実りある生き方をしなければならないことについても。新しい作品をつくっていたさいのわたしの考えはこういうものであった。

交響曲は室内管弦楽団(弦楽器といくつかの打楽器、ソプラノとバスのふたりのソロ歌手)のためにつくられた。どんな詩をえらんだか、ひょっとして意外に思われるかもしれない。それは、フェデリコ・ガルシア・ロルカ、ギヨオム・アポリネール、ライナー・マリア・リルケ、ロシアのデカプリスト詩人ヴィリゲリム・キュヘリベケルの詩だった。一番残念なのは、キュヘリベケルの作品が今にあまり知られていないことだった。偶然わたしは彼の本を手にして、その詩が深くて美しいことに驚かされた。全部でわたしは十一の詩を選びだし、交響曲の四つの楽章に結びつけた……。

この交響曲の初演は、つぎのコンサート・シーズン初めにしたいと思っている。この交響曲の演奏が終ったとたんに、聴衆が思わず、生きることはなんとすばらしいのだろうと考えるようにしたいものである。(談話速記から:ショスタコーヴィチ自伝, pp. 429-430)

ちなみに、この曲に「死者の歌」という副題が付けられることがあるが、これはショスタコーヴィチ自身によるものではない。バルシャーイの初録音盤の解説の中で、ウサミ・ナオキ氏が自分の考案で命名したことを述べている。

ロシア語という言語の問題があるためか、録音は決して多くない。しかし、いくつかの超名演が残されているので全く不満は感じない。まず筆頭に挙げられるのが、初演者ミロシニコーワ(S)、ウラジミロフ(B)、バルシャーイ/モスクワ室内O(Melodiya)による初録音盤である。凄惨でありながら官能的という、この曲の持つ複雑な響きを余すところなく表現しきっている。研ぎ澄まされたアンサンブルが醸し出す尋常ならざる緊張感も素晴らしい。歌手、オーケストラ共に冷ややかな感触を持つ音色も、非常に適切。テンポや解釈についても、これ以外に考えられないという説得力に満ちている。技術的な完成度も全く文句なし。完璧である。10月6日に行なわれたモスクワ初演のライヴ録音も残されている。こちらはヴィシネーフスカヤ(S)、レシェティン(B)、バルシャーイ/モスクワ室内O(Russian Disc)という顔合わせ。第4楽章の入りをヴィシネーフスカヤが間違っているなど、些細な(ショスタコーヴィチにとっては大問題だったようだが…)瑕はあるものの、モスクワ室内Oの驚異的な合奏力には言葉もない。特に、第2楽章や第3楽章に象徴されるような尋常ならざる突進は、他の演奏では聴くことができない。録音条件など不満がないわけではないのだが、それをはるかに超越する音楽の力がある。ショスタコーヴィチ・ファンならば必聴の一枚。なお、一番最後に打楽器が付加されているが、これがバルシャーイの提案に応じてショスタコーヴィチが渋々用意した別稿なのだろうか?興味深い。

バルシャーイのスタジオ録音に参加したミロシニコーワに対抗したのであろうか、ヴィシネーフスカヤ(S)、レシェティン(B)、ロストロポーヴィチ/モスクワPOソロイスツ・アンサンブル(Melodiya)盤も荒々しいまでの勢いと集中力に満ちた名演。極めて情熱的なエネルギーに貫かれた熱い演奏。凶暴なオーケストラと、それに対峙する圧倒的な二人の歌手のバランスが非常に素晴らしい。冷徹なバルシャーイ盤の対極にある演奏だが、ショスタコーヴィチの精神の力強さを別の側面から明らかにしている。引き締まったリズム、太く厚みがありながらもどこか冷めた感触を持つ音色、そして全曲を通して決して途切れることのない張り詰めた緊張感。いずれをとっても全く申し分がない。ロストロポーヴィチが指揮したショスタコーヴィチの交響曲中、最高の出来である。

初演に関わったメンバーは加わっていないものの、ツォロヴァルニク(S)、ネステレーンコ(B)、コンドラーシン/モスクワPO(Melodiya)盤も非常に格調の高い名演。二人の独唱者の名唱が光る。決して上滑りになることなく、腰の落ち着いた安定感が素晴らしい。コンドラーシンの指揮はいつもの野生的な表情が影を潜め、深淵を覗き込むような静寂を丁寧に描き出しているところに、この指揮者の奥深さを垣間見ることができる。とかく緊張感と鋭さが前面に出がちなこの作品から、官能的なまでの美しさをひきだしているところが個性的。

聴き逃せないのが、カーティン(S)、エステス(B)、オーマンディ/フィラデルフィアO(RCA, LP)盤。響きの美しさが際立つ秀演。妖艶とすら形容できるような甘い響きは、このコンビならではのもの。暖かく贅沢な響きが聴き手を包み込む異色の演奏と言えるだろう。ロシア語の発音はやや不明瞭ながらも、2人の歌手も立派な出来。戦慄、恐怖、鋭さといった側面が後退していることは否めないが、丁寧にスコアを読み込んだ極めて説得力のある演奏である。オーケストラの技術水準も非常に高い。

各詩を原語で歌った演奏もある。最も有名なのがヴァラデイ(S)、フィッシャー=ディースカウ(Br)、ハイティンク/アムステルダム・コンセルトヘボウO(London)盤。この曲が連作歌曲ではなく、交響曲であることを再認識させるような造形力に満ちた演奏。歌手、指揮者ともに極めて理性的なアプローチで、この難解な大作に挑んでいる。曲に対する深い理解と共感の感じられる優れた演奏。意外なところでは、ハヴェリネン(S)、サロマー(B)、スウェンセン/タピオラ・シンフォニエッタ(Ondine)盤が良い。歌手の発音には若干の不明瞭さがあるが、何よりも非常に美しい演奏。オーケストラは極めて丁寧に、どんな瞬間も決して荒々しくならずこの曲の美観を描き出している。戦慄の走るような壮絶さとは無縁の演奏だが、この曲の魅力を別の側面から聴かせてくれる。しかしながら、ショスタコーヴィチが作曲したのはロシア語詩であり、イントネーションが決定的に違う以上、これらの演奏をそれほど高く評価する気にはなれない。一部、“原詩”であることを“オリジナル”と混同している評論家もいるようだが、大きな誤り。他にドイツ語訳詩版などもあるが、いずれも歌詞の響きに大きな違和感が残る。

バルシャーイ盤
(Victor VICC-2117)
バルシャーイ盤
(Russian Disc RD CD 11 192)
ロストロポーヴィチ盤
(Melodiya SUCD 10-00241)
コンドラーシン盤
(Victor VICC-40094/103)
オーマンディ盤
(RCA CRL3-1284, LP)
ハイティンク盤
(London POCL-9255/66)
スウェンセン盤
(Ondine ODE 845-2)

交響曲第15番イ長調 作品141

1971年7月29日にレーピノで完成され、翌1972年1月8日、モスクワ音楽院大ホールにて息子のマクシーム指揮のモスクワ放送交響楽団によって初演された。国外初演は、ロジデーストヴェンスキイ指揮のモスクワ放送交響楽団が1972年5月10日に大阪フェスティバル・ホールで行なったとされているが、同時期に旧東ドイツにて行なわれたスヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団によるものの日程がはっきりしていないため、詳細は不明である。『ショスタコーヴィチ(作曲家別名曲解説ライブラリー15)』(音楽之友社, 1993.)によると、日本初演の方が東ドイツ初演よりも3日早いとされている。

ショスタコーヴィチ最後の交響曲となったこの作品は、交響曲第10番作品93以来の純器楽交響曲である。ほぼオーソドックスな4楽章形式をとっており、第11番作品103や第12番作品112のような標題性や、第13番作品113や第14番作品135のような形式の大胆かつ自由な取り扱いもない。しかしながら、嬉遊性と瞑想性、極めて室内楽的な書法に起因する尋常ならざる透明感、聴き手に考えることを要求するような含蓄溢れる引用の数々など、この大作曲家の到達点に相応しい謎めいた雰囲気を持った、決して一筋縄では捉えきれない傑作である。

作品解釈の手がかりとなる作曲者自身の言葉は、晩年ということもあってかほとんどない。唯一のまとまった文章は次のもの:

第十五交響曲には、きまった表題はない。漠としたイメージのみがあって、第一楽章は、おもちゃの店でおこるようなものだと自分では言ったことがある。だがわたしがそう言ったからといって、からならずしも正確だとはかぎらない。この交響曲に引用した音楽には「ヴィルヘルム・テル」、ワグナーの「ニーベルングの指輪」からがあり、またあまり聴衆になじみのないと思われるグリンカのロマンス「疑惑」をわたしは第四楽章に利用した。……なぜそんなことをするのかと問われるが、それには、そうしなければならなかったのだとしか応えられない。わたしの作曲家生活は長く、ずいぶん昔からたくさんの作品をつくってきたが、いまにいたるも、なぜこうしたかああしたかということを的確に説明することはできない。わたしは自分では、空想家ではなくリアリストだと思っている。しかしご存じのように、創作の問題には、むろん多くのわからないことがある。第十五交響曲にこういった引用をなぜするかということも、そのわからないことのなかにはいるが、それを正確に説明することはできそうにない。

創作のプロセスとはいったい何だろうか。最初の音符を記したときに、どんな音符でしめくくられるかはっきりわかるばあいも時にないことはない。しかし最初の音符を書きいれ、十番目、五十番目、終りの音符は雲をつかむような気のするばあいもしばしばある。だが第十五交響曲はなんだかきわめてはっきりしていて、うまく行きそうだということがかなり明らかに見えるような気がした。この仕事でわたしは一所懸命に働き、文字どおり昼も夜も熱中し、おかしく思われるかもしれないが、病院でこの仕事をし、退院して書き、別荘で書きというふうに、ひとときも手ばなすことができなかった。これは自分が全くとりつかれたようになってした仕事の一つであった。じっさい、最初の音符から最後の音符まですっかりわかっていて、それを書きしるす時間がありさえすればすむといった作品の一つであったといえよう。(アメリカのテレビ談話の速記、1973年:ショスタコーヴィチ自伝, pp. 472-473)

この作品を特徴づける数々の引用には、次のようなものが挙げられている。

この他にもまだ隠された引用があろうが、これだけの音楽がかなり直接的な形で引用されていること、そしてそれらが見事にショスタコーヴィチの音楽として昇華されていることには驚きを禁じ得ない。

少年時代を思い起こさせる「ウィリアム・テル」の引用に始まり、心臓発作で死を覚悟した時期の作品であるチェロ協奏曲第2番作品126と同じ、交響曲第4番作品43(これもまた、批判のために死を覚悟した時期の作品である)の引用で終わるこの作品は、結局のところ多くの人が語っているように、ショスタコーヴィチ自身の“人生の回想”であるとして、まず問題ないだろう。生前のショスタコーヴィチと親交のあった指揮者クルト・ザンデルリンク氏は、第4楽章コーダのシロフォンを“病院の点滴の音”だという解釈を示している。この交響曲が入退院を繰り返す中で書かれたこと、また同じ音形が登場するチェロ協奏曲第2番も最初の心臓発作を経験した直後に書かれていることを考えると、この指摘はまことに正鵠を得ていると思われる。それにしても、死に直面した人間の書いたこの音楽の何と美しいことか。いや、死を受け入れたからこそ、このような音楽ができたのか。いずれにしても、筆者のような若僧が軽々しく論評してはならないだろう。

この作品に関しては、クルト・ザンデルリンクの演奏が一頭抜きん出ている。現在のところ、海賊盤も含めると5種類の演奏を聴くことができるが、そのいずれもが他を寄せ付けない孤高の超名演である。まずは1999年3月16日のライヴ録音であるK. ザンデルリンク/ベルリンPO(Berliner Philharmoniker)盤を挙げたい。海賊盤ではあるが、翌17日の演奏(‘Fachmann für Klassischer Musik’ Society))もある。両者ともに、形容する言葉も見つからない程、ただただ圧倒される空前絶後の名演。ライヴゆえの瑕もないわけではないが、現在聴くことのできる録音の中では文句なしに最高のものであろう。ザンデルリンクの完成された解釈を、ベルリン・フィルがその底力を遺憾なく発揮して余すところなく音にしている。会場中に張り詰めた異様な緊張感まで伝わってくるようだ。ライヴならではの緊張感という点では16日盤を、深遠な雰囲気という点では17日盤をとりたいが、いずれにしても、楽曲のあらゆる箇所を意味深く響かせつつも(たとえば第2楽章で第1交響曲の引用がチェレスタに出てくる瞬間など)、端正な形式感を厳然と保ちながら巨大な音楽を形成するザンデルリンクの手腕には脱帽。文句のつけようがない名演である。K. ザンデルリンク/クリーヴランドO(Erato)盤も、とてつもなく巨大で深遠な名演である。ゆったりとしたテンポだが弛緩を感じさせる部分は皆無で、全ての音と休符にぎっしりと意味がつまっている。特に弱奏部の表現力は驚異的で、これほどまでに切実に訴えかけてくる音楽は稀だろう。クライマックスに至るうねりも凄絶。クリーヴランド管の機能を十分に生かし、スコアに書かれていることが完璧に具現化されている。長大な終楽章など個性的な解釈であるにもかかわらず、それがショスタコーヴィチの音楽そのものだという圧倒的な説得力に満ちている。この演奏を聴かずにこの曲を語ることはできない。残るK. ザンデルリンク/ベルリンSO(Deutsche Schallplatten)盤とK. ザンデルリンク/バイエルン放送SO(Halloo)盤も傑出した出来。とにかくこの曲に関する限り、クルト・ザンデルリンクの演奏は絶対に聴き逃してはならない。

西側初の交響曲全集を完成させたハイティンク/ロンドンPO(London)も立派な演奏。派手さはないが、単に堅実なだけに留まらない充実した名演。全ての音が意味深く響き、相互に緊密な関連付けがなされているために造形もしっかりとしている。非常に明快な解釈であるが、どこかくすんだようなオーケストラの音色がこの演奏にさらなる魅力を付加している。室内楽的なテクスチュアと交響曲的なスケールの大きさとが見事に調和しているのが素晴らしい。西側の演奏家によるものとしては、オーマンディ/フィラデルフィアO(BMG)盤も忘れてはならない。このコンビといえば必ず「内容がない」と言われる。この録音についても「オーマンディは作曲者の心の葛藤とはまったく無関係な所でハッピーな音を鳴らしている」(柴田南雄:レコードつれづれぐさ, 音楽之友社.)のような批評があったようだが、どうしてどうして、これは素晴らしい演奏。真摯にスコアを音化することの威力をまざまざと見せつけてくれる。強奏部でも決して汚い音はせず、余裕を持ってクライマックスを築く一方で、絶対に音の痩せない弱奏部も聴き逃せない。全てがスマートかつ楽々と解決されているためギリギリの緊張感はなく、確かにそれが物足りないとも思うが、十分に立派な演奏である。

本家ソヴィエト勢の演奏では、まず初演コンビM. ショスタコーヴィチ/モスクワ放送SO(Melodiya, LP)の録音を挙げたい。これは、作曲者自身の言葉「おもちゃの店」という雰囲気を、最も良く表出した演奏。大作曲家最晩年の作品として、深くて重い、厳しくて寂しい解釈が主流を占める中、初演者マクシームの演奏は輝かしいばかりの煌めきを持っている。深みに乏しいという聴き方もできるだろうが、むしろ聴き手にこびりついた先入観を取り払ってみると、作曲者が頭に描いていた音楽はこのようなものだったのではないかと思えてくる。モスクワ放送交響楽団の華やかな響きと、首席奏者達の名技がこの印象に大きく貢献していることは改めて言うまでもない。第1楽章や第3楽章の生きの良い音楽もさることながら、第2楽章や第4楽章のクライマックスで見せる、精神のとてつもない力強さが素晴らしい。CD化が待たれる。

レニングラード初演を担当したムラヴィーンスキイも2種類の録音を残している。交響曲第13番の初演にかかわるトラブルでショスタコーヴィチとの仲が疎遠になっていたものの、久し振りの共同作業となったこの曲では、個性的で素晴らしい演奏を残している。ムラヴィーンスキイ/レニングラードPO(Melodiya)の1976年盤は、作曲家自身も大変満足していたという最初の録音(レニングラード初演)から4年後、作曲家の死後1年近く経った後の再録音である。1楽章で打楽器のリズムがしっくり来なかったり、2楽章の最初の方にやや中途半端な印象が残ったりもするが、この至難な曲のライヴ録音としては驚異的な精度である。テンポ、強弱、リズム、フレージングのいずれを取っても完璧なまでに楽譜に忠実であり、ムラヴィーンスキイの読譜能力の非凡さが伺える。1、3楽章で見られるように、いつもながら無愛想な音楽ではあるが、早目のテンポの中で繰り広げられる細やかなニュアンスに満ちた演奏は他の誰にも真似できないものであり、またそれがショスタコーヴィチの音楽の特質そのものでもある。2楽章や3楽章の後半などでは、スコアの薄さを持て余したような部分も見られるが、4楽章は圧巻であり、この楽章に関しては余人の付け入る隙はないといえよう。ムラヴィーンスキイがこの曲をもっと取り上げて研究を進めていたならば間違いなく究極の演奏ができていたはずであるが、ほんのわずかしか演奏しなかったのは残念としかいいようがない。この曲はムラヴィーンスキイのお眼鏡にかなわなかったのか、それとも、ムラヴィーンスキイが手に余ると判断したのか…。一方、ムラヴィーンスキイ/レニングラードPO(Melodiya, LP)の1972年盤は、レニングラード初演時のライヴ録音。すでにムラヴィーンスキイの解釈は確立されている。確信に満ちたテンポ、鋭い切り込みを見せるリズム。楽譜の隅々まで丁寧に読み込まれ、それが全て音化されていることには驚嘆するしかない。第1楽章が素晴らしい出来で、後年の録音よりも緊張感に満ちた名演に仕上がっている。第2楽章も、緊張の持続という点においてはこの録音の方が優れているが、音楽の練り上げ具合はやはり後年のものに劣る。第3楽章以降も立派な演奏ながら、まだ解釈が深化していない印象が拭えない。とはいえ、この曲の理想的な演奏の一つに挙げられることは間違いない。

音楽の訴求力という点で随一なのは、ケーゲル/ライプツィヒ放送SO(Weitblick)。それにしてもこの演奏は、なんという音楽なのだろう。音楽が進んで行くにつれて、得体の知れない怖さに身体の震えが止まらなくなる。悲鳴、慟哭、嗚咽…そんなありきたりの言葉では形容できない。作品の可能性を汲み尽したかのようなケーゲルの解釈は、まさに空前絶後。オーケストラの非力さが何とももどかしい。

最後に、一時期話題になったクレメラータ・ムジカ(DG)によるV. デレヴィアンコの室内楽編曲版について。ショスタコーヴィチ自身はこの編曲を歓迎してOp. 141bisという作品番号を与えたらしいが、出来自体には正直言ってあまり感心しない。オリジナルに新たな光を与えるようなものではない上に、物足りなさばかりが残る。演奏は、全般にソツなくまとめられているもののスル・ポンティチェロ奏法を多用するクレーメルの音色の選び方には若干疑問がある。個性的なアップ・ボウと“つぎ足し”ボウイングによる独特のフレージングも、ショスタコの節回しにとっては決して効果的とはいえないように感じられる。その他の演奏者は全員達者で、クレーメルのスタイルによく従っているが、それだけ。これが「クレメラータ・ムジカ」たる所以なのか。結局のところ資料的な価値しか認められず、ショスタコ・マニアかクレーメル・ファン以外には全くお薦めできない。

K. ザンデルリンク盤
(Berliner Philharmoniker
BPH 06 11)
K. ザンデルリンク盤
(FKM-CDR-60/1)
K. ザンデルリンク盤
(Erato WPCS-5539)
K. ザンデルリンク盤
(Deutsche Schallplatten
25TC-288)
K. ザンデルリンク盤
(Halloo HAL-33-34)
ハイティンク盤
(London POCL-9255/66)
オーマンディ盤
(BMG 09026-63587-2)
M. ショスタコーヴィチ盤
(Victor SMK-7724, LP)
ムラヴィーンスキイ盤
(Victor VICC-40094/103)
ムラヴィーンスキイ盤
(Victor VIC-28053, LP)
ケーゲル盤
(Weitblick SSS0040-2)
クレメラータ・ムジカ盤
(DG 449 966-2)

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Last Modified 2008.05.13

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