ロシアとキルギスの民謡による序曲 作品115 解説

概説

キルギス共和国(旧ソ連時代の正式名称はキルギス・ソビエト社会主義共和国)は中国とモンゴルの西隣に位置し、国土の大分が天山山脈とその支脈であるアライ山脈に占められる山の国である。国の一番低いところでも海抜540mある。1999年8月23日に発生した日本人拉致事件のために最近は印象があまり良くないが、西域とよばれる中央アジア諸国はいわゆる“シルクロード”であり、今なお多くの人々の憧れの土地でもある。15世紀後半にキルギス民族が形成されて以降、キルギス共和国は他の中央アジア諸国と同様に中国・清朝やコーカンド・ハーン国、ロシア帝国といった周辺の大国に入れ替わり立ち替わり支配されてきた。1863年にはロシア帝国がキルギス人の大部分が住む北キルギスタンを領有し(これを「ロシアへの自由加盟」と呼ぶ)、以後1991年8月31日の共和国独立宣言までの間、ロシア(ソ連)の支配下におかれることになる。

ドミートリィ・ドミートリェヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906-1975)がこの地を訪れたのは1963年6月1〜10日、キルギスのロシアへの自由加盟百年祭と同時に開催されたロシア・ソヴィエト音楽旬間へ出席した時のことだった。この時の印象を、ショスタコーヴィチは次のように語っている。

「キルギス共和国におけるロシア・ソヴェト音楽旬間がその幕をとじた。このすばらしい共和国にわれわれの滞在した十日間は、多くのきわめて興味ぶかい、けっして忘れることのできぬ事件の連続で、またたくまに過ぎ去った。最もあざやかな印象は、さまざまな人びととの、キルギスの人びととの出会いで、こういう出会いはめったにないほどのものだった。この期間に三十ばかりの講演があった。こういう出会いは、われわれの乗用車の通る自動車幹線道路でさえおこなわれた。……高地の牧場で、綿花畑で、音楽に深い関心をいだき、きわめて正しく興味ぶかい意見を述べる文化程度の高い人びとに出会った。共産主義がけっしてたんなる夢想でなく、キルギスの働く人びとをふくめたソヴェト人の想像する現実にほかならぬことをわれわれはこの目で確かめることができた。

……われわれは日々、あたたかい雰囲気にとりまかれていた。キルギス共和国の勤労者すべてが、うちとけた、親しい感じをわれわれに示してくれた。どんなふうに迎えてくれたか、音楽を聞いてくれたかということは決して忘れられない。そしてこれらのことは、われわれを刺激し、鼓舞するだけでなく、親しいキルギス共和国、その地のすぐれた人びと、その献身的な労働を、われわれが自分たちの作品のなかで讃えることを義務づけている。」(『プラウダ』1963年6月14日号:ショスタコーヴィチ自伝, p. 354)

ショスタコーヴィチがこうした公式行事に参加した背景には、1960年9月14日、作曲家同盟合同党組織全体会議によってソ連共産党員候補に推薦され、翌年9月にモスクワ作曲家組織の公開党会議で正式にソ連共産党員として承認されたことがある。1962年にはソ連邦最高会議代議員に選出されるなど、これ以降社会的な責務が増大していくことになる。ショスタコーヴィチの思想的な信条は必ずしも明らかではないが、共産党員となることは彼にとって非常に辛かったようで、息子のマクシームは次のように語っている。「私は父が泣いているのを二度見たことがある。一度目は母(最初の妻ニーナ)が死んだ時、二度目は共産党への入党が決まった時だった。」また、長らくショスタコーヴィチの秘書役を務めた友人イサーク・グリークマンに宛てたショスタコーヴィチの手紙によると、共産党への入党が避けられない状況になった1960年には自殺することすら考えていたようで、音楽的な遺書として弦楽四重奏曲第8番ハ短調作品110が作曲されたらしい。確かにこの曲に見られる多数の自作からの引用や全体に漂う悲痛な雰囲気は、この話を裏付けるに足るだけのものを持っている。しかしながら、全く同時に第二次世界大戦におけるドレスデン空爆時のエピソードを扱った東独とソ連との合作映画「五日五晩」の音楽(作品111)を作曲している辺り、ショスタコーヴィチという人物の複雑さに改めて驚かされる。

1961年にはレーニンの思い出に捧げられた交響曲第12番ニ短調「1917年」作品112を作曲し、いかにも従順で模範的な共産党員のような素振りを見せたショスタコーヴィチだが、それと引き換えに1936年に作曲された後にプラウダ批判の影響で長らくお蔵入りしていた交響曲第4番ハ短調作品43の初演を果たす。そして翌1962年には反体制詩人(といっても、後に体制との関係を器用に保持するようになるのだが)エヴゲーニイ・エフトゥシェーンコの詩につけた問題作、交響曲第13番変ロ短調作品113を発表する。ここには、共産党員としての立場を最大限に利用するショスタコーヴィチのしたたかさが存分に感じられる。また、プラウダ批判の原因となった歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」作品29の改作「カテリーナ・イズマーイロヴァ」作品114の初演(?)は1963年のことである。フルシチョフの“雪どけ”時代であったことは確かだが、これらの動きにショスタコーヴィチの共産党入党が有利に働いていることは間違いないだろう。

こうした時期に、ショスタコーヴィチは民族音楽に関する次のような文章を発表している。

「わが国音楽創造の最も重要問題は、現代的な民族スタイルの問題である。……民族的スタイルというものはおよそ静的なものではありえない。それは複雑な、多面的に発展するプロセスで、その特徴の一つが廃れれば、別のものが生れるといったふうのものである。専門的な音楽創作の経験が豊富になり、芸術的相互影響の努力をかさねるにしたがって、一方ではこのスタイルの結晶化がおこり、他方では兄弟共和国の音楽文化はますます近しいものになる。というのはわれわれは、何よりもまずその内容、その主導的なイメージを考慮にいれているのである。レーニン、党、人民―これらは、ソヴェトの作曲家ひとりひとりが、ロシア人だろうとタタール人だろうとバシキール人だろうと、またオペラをつくるか、交響曲をつくるか、歌をつくるかにかかわりなく、その創作の地平を照らす偉大な、そして一時的にとどまらないものである。新しい内容の影響のもとに、人民という大本によって養われる新しい芸術的伝統が生れてくる。それぞれの音楽文化は、たがいに影響しあってそこから利益をうける。ロシア・ソヴェトの作曲家たちは、他の諸民族の民謡類にふれることで、かつてロシアのすぐれた古典音楽家と同じように多くのものをそこからえている。この相互交換的なプロセスは、いまでははるかに積極的なものとなっている。十九世紀前半にはやくも、世界芸術における力づよい、すばらしく民族的な、きわめて進歩的な現象となったロシア音楽は、ソヴェト各民族音楽と真に親しい協力関係をもっていることを指摘しておかなければならない。つまりロシア音楽文化のデモクラチックなリアリズムの伝統は、現在ロシア連邦を構成している国々をもふくめ、多くのソ連構成共和国の専門芸術の形成にきわめて大きな影響を与えている。これら諸民族の多くは、おしなべて、十月社会主義大革命までは独自の専門音楽をもたず、こんにちの彼らのオペラ、バレー、交響曲、オラトリオ、室内楽、軽音楽などの達成は、社会主義文化の原則の結実したみごとな証拠にほかならない。

だが現在では、構成共和国の作曲家がロシア音楽文化との交わりによって多くのものをえているだけでなく、逆にロシアの作曲家たちも、構成共和国の音楽文化との創造的なふれあいから多くのものを汲みとっている。」(『夕刊トビリシ』1961年6月23日号:ショスタコーヴィチ自伝, pp. 323-325)

各種メディアに掲載されたショスタコーヴィチの文章はそのほとんどが別人の手によるもので、ショスタコーヴィチ自身はただ署名しただけ(それも、中身を読むことはほとんどなく、差し出されたもの全てに署名をしていたらしい)というのが現在の通説で、上記の文章もショスタコーヴィチ本人によるものではない可能性が高い。したがって、民族音楽を取り扱った音楽作品の創造は、ショスタコーヴィチ本人というよりはむしろ当局側の意思であったとも考えられる。当時のソ連の民族政策について筆者は寡聞にして知らないが、正式に共産党員となったショスタコーヴィチが当局の意向にそった作品を発表すること自体はごく自然である。

この作品の構想については、ショスタコーヴィチ自身が次のように語っている。

「我々はキルギスの自然の美しさに感嘆するだけでなく、自分自身の眼でその文化の開花を果たし、行く先々で新しく色彩豊かで美しい何かに遭遇するのだった。……私はこのキルギスのロシアへの自由加盟百年祭のためにロシアとキルギスの主題を使った交響詩を作曲しようと考えている。」(『イズヴェスチヤ』1963年8月20日号:ショスタコーヴィチ (作曲家別名曲解説ライブラリー15), p. 132)

作曲は1963年初秋頃、レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)郊外のレーピノで行われた。作曲を終えた後、ショスタコーヴィチは次のような文章を発表している。

「正直いってこれらの歌がこれほどつよく自分の心に残り、これほど深く根をおろしていたとはそのときは思いもかけなかった。だがついきのう、わたしは書きあげたばかりの新しい作品「ロシアとキルギスのテーマによる序曲」の清書にかかったところである。これはキルギス旅行のいわば最初の結実だといってよかろう。この旅行はほんとうに忘れられない。

この曲をわたしは新しい「キルギス序曲」と呼んでいるが、これは管弦楽団のためのもので、すべての人が歌っているかにみえる客好きな親しいキルギスの人びとへのわたしのささやかな贈り物である。あまり大きくない、全部で四十数ページのもので、演奏しても八分ぐらいしかかからない。だが、総譜はなかなかむずかしいかと思う。すでに述べたように、その基礎となっているのは、可憐な、いやただすばらしいとしかいいようのないキルギスの歌である。」(『文学新聞』1963年10月12日号:ショスタコーヴィチ自伝, pp. 358-359)

Музыка社から1984年に刊行された作品全集の解説によると、初演は1963年10月10日にモスクワでソヴィエト国立交響楽団の演奏(指揮はK. イワノフ)によって行われたとされているが、ショスタコーヴィチ自伝や石田一志氏によるハイティンク盤の解説には11月10日との記述があり(同氏によるショスタコーヴィチ (作曲家別名曲解説ライブラリー15)の解説では10月10日とされている)、初演の日付については混乱が生じている。上記『文学新聞』の記事の日付と内容から判断すると11月に行われたとする方が自然な感じがする(初演直後の文章とは思えない)。確かな証拠はないが、作曲家同盟での“非公開”初演(旧ソ連では、公式初演の前に仲間内で作品を披露し、批判的な意見を交換させるシステムになっていた)が10月10日に行われ、11月2日にキルギス共和国の首都フルンゼ(現ビシュケク)での初演が行われた後、“非公開”初演と同じ演奏者による“公開”演奏が11月10日にモスクワ音楽院大ホールで行われたと考えることもできよう。


解説

序奏付きのソナタ形式によるこの曲は、ロシアの民謡「Эх,бродяги вы,бродяги(おぉ、放浪の人よ)」(A. メドヴェージェフによって1959年に西シベリアのオムスク州で採譜された)と、キルギスの民謡「Тырылдан(ティリルダン:キルギスの神話的な人物の名前)」「Оп майда(オプ、マイダ:脱穀する人の歌)」(1956年刊のV. ヴィノグラドーフによるキルギス民謡集に所収)の、3つの旋律が元になっているといわれている。しかしながら残念なことに、これらの旋律を確認できるような資料の入手は極めて困難である。加えて、国内外を問わずこの曲に関する資料は非常に少ないために、以下の解説には筆者の勝手な推測が含まれることをあらかじめお断りしておく。

導入部はModeratoで、オーボエ、クラリネット、ファゴット各2本ずつのユニゾンによる主題(譜例1)を中心に構成されている。


譜例1

この主題は、その旋律の雰囲気から「Тырылдан(ティリルダン)」ではないかと推察される。これは全部で3節から成っており、導入部ではその1節毎にヴィオラまたはチェロによるロシア風の旋律が挿入される。導入部の最後(練習番号5)にフルートが登場し、Allegro non troppoの主部へと繋ぐ。

練習番号6からはじまる提示部では、まずホルンのソロで奏されるロシア風の第1主題(譜例2)が現われる。


譜例2

この旋律が、「Эх,бродяги вы,бродяги(おぉ、放浪の人よ)」だと思われる。この旋律は休符をはさむ2つの部分から成っているが、以降では主にこの前半部分が展開されることとなる。いかにもショスタコーヴィチらしい転調を含む盛り上がりを見せた後、練習番号12の経過句をはさんで、練習番号13から第1ヴァイオリンがD線の開放弦を伴って奏するキルギス風の第2主題(譜例3)が登場する。


譜例3

これが「Оп майда(オプ、マイダ)」なのだろう。練習番号14で金管楽器によって第2主題が繰り返された後、練習番号15で第1主題の変形(譜例4)が現われ、提示部を終える。


譜例4

この変形は、第2主題に近い雰囲気を持っており、「キルギスのロシアへの自由加盟」を象徴するような役割を担っているとも考えられる。加えて、リズムの構成がいかにもショスタコーヴィチ的で、大変効果的である。

練習番号18から始まる展開部では、導入部の旋律(譜例1)を中心に、第1主題(譜例2)の前半部分と第2主題(譜例3)とが自由に展開される。全体の雰囲気は極めて勇壮で、ショスタコーヴィチの手慣れたオーケストレイションが高揚感を自然に表出している。盛り上がりが頂点に達した練習番号25で第1主題の変形(譜例4)が再び現われ、展開部を締めくくる。

練習番号26からが再現部で、まず第2主題から再現され、続く練習番号27で第1主題が再現される。この再現部は比較的小規模で自由な構成を持っている。練習番号32でまた第1主題の変形が現われ、再現部の終りを告げるとともに、練習番号34のコデッタへと繋ぐ。コデッタでは、導入部の旋律(譜例1)が全金管楽器とファゴット、コントラファゴット、チェロ、コントラバスによって印象的に奏され、クライマックスを築く。

小休止をはさんで練習番号35からがコーダである。第2主題を弦楽器が演奏し、テンポがAdagioからAllegroまで早められた後、練習番号36から第1主題の変形が三度繰り返される中で速度と音量を増し、圧倒的な勢いの中で華やかに曲は閉じられる。

この作品は、選ばれた主題があまり展開の可能性を持たないこともあってか、確かにやや単調に音楽が進行していく感がある。したがってショスタコーヴィチの管弦楽作品中で特別重要な位置を占めるものとはいえないが、手堅い構成とオーケストレイションにショスタコーヴィチの熟練の技が見られる点で、「祝典序曲」作品96には十分に匹敵し得る作品だろう。


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Last Modified 2006.05.24

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