ショスタコーヴィチを読むためのキーワード

ショスタコーヴィチに関する文献やレコードの解説等を読んでいると、いくつかの単語が当たり前のように出てきます。それらは大抵政治的な背景を含んでおり、ショスタコーヴィチという作曲家の実像を分かりづらくしているように思われます。ここでは、以下の6つの単語をキーワードとして取り上げ、必ずしも精確とはいえないかもしれませんが、各種の資料を読む上で最低限妨げにならない程度の解説をしてみようと思います。


社会主義リアリズム

そもそも“リアリズム”という概念は、文学の分野に端を発する。プーシキンやゴーゴリの創作態度がそれに当たるとされ、理論的にはベリーンスキイ、チェルヌイシェフスキイ、ドヴロリューボフらによって初期の問題提起が行われた。この流れを引き継いだゴーリキイが、いわゆる“社会主義リアリズム”の元祖的な存在となっている。ただしこの言葉の定義は、1932年にスターリンによって次のように与えられた。「社会主義リアリズムは、ソヴェト文学と文学批評の基本的な方法である。それは、芸術家に、現実生活とその革命的発展を、真実に、歴史的に具体的に描写することを要求する。この真実と、歴史的な具体性とは、勤労大衆の中に新しい人生観を育て上げ、彼等を社会主義の精神において訓練するという問題とむすびつけられなければならぬ。」(古在由重・蔵原惟人編:リアリズム研究, 白楊社, p.49, 1949.)

これが、ジダーノフらの指導で1934年の第一回全ソ作家大会において作家同盟規約として採択され、文学にとどまらず、ソ連芸術全般に関わる基本方針とされた。しかしながら、上記の概念は文学の分野で確立されたものであり、これを音楽へ当てはめるには何らかの理論的展開が必要となる。その理論自体は結構難解なもののようで、筆者が読んだいくつかの文献においては、明快な解説に出会うことはできなかった。ともかく、結論としては文学の場合と同様、「内容において社会主義的で、形式において民族的」というようなことになるらしい。

この問題を学術的に扱う場合には問題があろうが、ショスタコーヴィチの音楽に興味を持った筆者のような素人が理解する上では、「もっともらしい概念ではあるが、実際には党が要求する創作を徹底するための方便」位の捉え方で十分であろう。極端な話、「真実に、歴史的に具体的に描写する」というだけであれば、交響曲第13番作品113などはまさに社会主義リアリズムの路線に則った傑作ということになるのであろうが、現実はそのように評価されることはなかった。ソヴィエト社会の建設を積極的に主題として取り上げ、その未来を“楽天的”に描写することが望まれた、という程度のことなのだろう。

実際には、文学や映画の場合ほど音楽の分野がこの教義に基づいて批判されることは少なかった。具体的には、どちらもショスタコーヴィチが槍玉にあげられたプラウダ批判ジダーノフ批判の2つが代表的なものである。党が音楽分野における社会主義リアリズムの方向として要求したものは、これら2つの批判文の中に読み取ることができよう。いずれにしても、(音楽においては)“実体のないもの”というのが、筆者の考えである。ただし、創作の可能性が著しく狭められ、教条主義的な作品が量産される結果を招いたことは、事実である。


プラウダ批判

1936年1月28日、共産党中央委員会機関紙『プラウダ』に「音楽のかわりに荒唐無稽」と題する社説(資料コーナーに全文があります)が掲載された。これは、歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」作品29に対する批判記事であった。引き続いて2月5日には同紙に「バレエの偽善」と題する批判記事が掲載された。こちらはバレエ「明るい小川」作品39に対するもの。この両記事に基づいて作曲家同盟による討論会が緊急に開かれた。これら一連の動きを総称して“プラウダ批判”という。

この批判では“形式主義”、“メイエルホーリド主義”、“モダニズム”といったものが取り上げられたが、一見もっともらしく、かつ理論的に見える批判の内容も実際の作品と照らし合わせてみると実体のないものであることが分かる。すなわち、ショスタコーヴィチの作品やその傾向自体が問題とされた訳では、必ずしもない。むしろ、丁度良いタイミングで“難解な”作品を発表したショスタコーヴィチが“カモ”にされた、ということだろう。これは、後のジダーノフ批判におけるムラデーリに共通するものがある。もっとも、対象となった作品の芸術的価値には大きな差があるようだが(筆者はムラデーリの歌劇「偉大な友情」を聴いたことがないので、確たる評価はできない)。問題となった社説を書いたのは、後年(ジダーノフ批判の際)になって「中央委員会によって書かれ」たものだと言及されているが、『証言』ではジャーナリストのダヴィド・ザスラフスキイの名前も挙げられている。いずれにしても、スターリンの意思を反映していることは間違いないようで、それゆえにこの批判の持つ意味は極めて重大なものであった。というのも、この1936年という年は第一次モスクワ裁判の死刑判決がおりた年であり、すなわちスターリンが権力を集中させるために行った悪名高き大粛清が始まりつつあった年なのである。したがって、“スターリンの意に背いた”ショスタコーヴィチは「人民の敵」の名の元に“見せしめ”として粛清される可能性もあったということになる。

この批判に対して、ショスタコーヴィチは一切自己批判や反論はしていない。したがって彼が何を想っていたのかはあくまでも推測の域を出ない。結局、ショスタコーヴィチは1937年に発表した交響曲第5番作品47の大成功をもって“復権”するのだが、その間には交響曲第4番作品43の初演を延期したり、国民的大ヒットとなった「マクシームの帰還」という映画の音楽作品45を担当したりする一方で、プーシキンの没後100年を記念するとの名目で極めて“モダニズム”的な「プーシキンの詩による4つの歌曲」作品46を作っていたりもする。この辺り、後年のジダーノフ批判の時とやっていることのパターンがそっくりだ。だが、ジダーノフ批判と異なるのは、復権するまでに1年強という時間しかかかっていないこと。また、「大粛清が始まった1930年代後半、特に1937年は、作曲家たちは皆、絶対音楽の交響曲を書くことを止めてしまい、標題付き交響曲や交響詩やカンタータ・讚歌の作曲に転向していたからだ。そんな時期、ショスタコーヴィチは性懲りも無くまた純粋管弦楽の交響曲を書き始めた、と周囲の人間たちも内心、見放しかけていた。と同時に、彼の作曲家魂や長いものに巻かれようとせぬ闘争心は密かな敬意を集めていたという。」(一柳富美子氏:BVCX-8020〜23盤解説, p.7.)といった記述から、「名誉挽回なら交響詩やオラトリオの方が安全確実で手っとり早いのは確かだった」(前掲書)のに、「森の歌」作品81のような作品ではなく、純器楽の交響曲で復権を図ったことも、そう簡単には解釈できない。

最後に一点。この批判をきっかけにしてショスタコーヴィチは交響曲第5番で大きく作風を変えた、というのが定説である。しかし、これは必ずしも正確とはいえないだろう。なぜなら、作品番号10〜20番台に見られた前衛的な作風は批判のはるか前、作品番号30番台の作品の中ですでに変化し始めていたからだ。その意味でショスタコーヴィチはこの批判を器用に“消化した”ということはできようが、上記の定説に基づいてショスタコーヴィチの創作態度を非難するのは的外れのような気がする。


ジダーノフ批判

1948年、中央委員会が主催したソヴェト音楽家会議にて行われた一連の音楽家批判事件のこと。ジダーノフとは文化問題担当の党中央委員会書記。席上、ジダーノフ自身も2つの演説を残している(資料コーナーに全文があります)。これは大祖国戦争(第二次世界大戦)後のイデオロギー統制を強化する目的のキャンペーンの一つで、文学の分野に始まり、あらゆる分野に同種の批判が行われた。本来「ジダーノフ批判」という時にはこれら全ての文化批判を指すが、ここでは音楽家批判に限定することにする。

この批判は、ショスタコーヴィチやプロコーフィエフをはじめとする、ほとんどといってよいほどの主要な作曲家達を“形式主義的傾向”があると断罪し、“古典的・人民的傾向を持ったリアリスティックな作品”を書くように強要した。発端は、ヴァーノ・ムラデーリの歌劇「偉大な友情」である。批判のパターンなどは、先のプラウダ批判とよく似たところがあるが、戦後のスターリン個人崇拝体制を強化する目的もあってか、社会的な影響はこちらの方が大きかったようだ。この批判について論じられた文章も、プラウダ批判とは比較にならないほど多い。

この批判の持つ意味や、歴史的な功罪については現在に至るまでさまざまに論じられているが、結局のところ、“イデオロギー統制”という目的のための単なる言い掛かりとしか、私には思えない。この批判の結果、純器楽曲は目立って減少し、党の意向に沿った分かりやすい(=スターリンおよび党を讚美する内容の)歌詞を持ったオラトリオやカンタータのような声楽曲の割合が著しく増大した。これはショスタコーヴィチの場合にも当てはまり、交響曲はスターリンの死後まで作られることはなく、オラトリオ「森の歌」や「革命詩人による10の詩」、カンタータ「我が祖国に太陽は輝く」といった、後に“体制の御用作曲家”という評価の元になる作品ばかりが発表されることとなった。

先のプラウダ批判の際には沈黙を守ったショスタコーヴィチが、こうした明らかに党の意向を汲んだ作品群を作って批判に応えた背景には、二人の子供ガリーナ(1936年生)とマクシーム(1938年生)の存在がある。仮にショスタコーヴィチが独身であればどういった行動を取ったかは想像するしかないが、二人の子供を養う責任感から、唯一確かな収入源であった映画音楽の仕事を引き受けていたことは、ほぼ事実のようである。自身の創作活動に対するこうした抑圧に不満を感じていたであろうことは、当時は発表されることのなかった“過激な”作品群(ヴァイオリン協奏曲第1番、ユダヤの民族詩より、弦楽四重奏曲第4番)や、スターリンの死後早々に作られた弦楽四重奏曲第5番と交響曲第10番を聴けば、容易に想像がつく。

このようなショスタコーヴィチの苦悩を赤裸々に表現した作品(?)として、1989年に公開された「ラヨーク」がある。これは、1948年の中央委員会ソヴィエト音楽家会議と全ソ作曲家会議に対する悪意に満ちた極めて直接的な風刺で、音楽だけではなく、出版譜に付けられている各種の序文や解説文等全てを通して、当時の屈折したショスタコーヴィチの心境を明らかにしている。音楽としてはむしろ稚拙な部類に入る作品だが、“ショスタコーヴィチにとってのジダーノフ批判”を考えるためには、絶対にはずすことのできない作品である。『証言』を読むよりも、はるかに圧倒的な印象を受ける。


雪解け

スターリン死後の自由への息吹を描いたイリヤー・グリゴーリエヴィチ・エレンブルグの中編小説のタイトル。国際的にも大きな話題を呼んだこの作品は、ポスト・スターリン時代を象徴するものとして、「雪解け」というタイトルがそのままその時代を表わす言葉として使われるようになった。音楽界では、アラム・イリイーチ・ハチャトゥリャーンが1953年11月に発表した論文「創作上の大胆さとインスピレーションについて」が、“ジダーノフ批判への叛旗”と騒がれつつもこうした新しい社会の流れに基づく思想を提示した。

ショスタコーヴィチはスターリンの死後まもなく弦楽四重奏曲第5番と交響曲第10番を発表し、明らかにジダーノフ批判の路線とは違う作品の内容で大きな論議を巻き起こした。特に後者は「第十交響曲論争」と呼ばれ、ソ連音楽界に大きな影響を与えた。これについては井上頼豊著「ショスタコーヴィッチ」(音楽之友社, 1957.)に詳しい。論争はしばらく続いたが、概ねこの曲に対する肯定的な評価は変わらなかった。ちなみに、上述したエレンブルグの「雪解け」(交響曲第10番の初演五ヶ月後に発表)の中には、設計技師ソコロフスキイがラジオでこの交響曲を聴き、長い沈黙の後に「数学だ、無限の数学だ」とつぶやくという描写がある。

一般にはフルシチョフ時代の大半が「雪解け」時代に相当すると捉えられているが、実際にはこの時期にも西側でいわれるような“自由”が獲得されていた訳では決してない。あくまでもスターリン時代と比較しての「雪解け」であったといえるだろう。この時期、1961年9月にショスタコーヴィチは共産党員となる。これは彼にとってもっとも絶望的な出来事だったようで、息子マクシームが「私は父が泣いているのを2回だけ見たことがある。1回目は妻のニーナが死んだ時、2回目は共産党員となった時だ」と述べていたり、正式に共産党員になる直前にあの陰鬱な弦楽四重奏曲第8番が作られていることからも、当時のショスタコーヴィチの心境が伺える。しかし、共産党員になることと引き換えに、彼は問題作交響曲第13番を発表する。エヴゲーニイ・エフトゥシェーンコの詩につけたこの交響曲は党からすぐにマークされ、初演後間もなく歌詞の一部改変を余儀なくされる。フルシチョフの抽象絵画に対する「ロバの尻尾」発言のあったこの時期、「雪解け」は終焉を迎え、再び保守的な方向性を強く持つブレジネフ時代へと進んでいくのである。


『証言』

1979年、アメリカで出版された「Testimony: The Memoirs of Dmitri Shostakovich」(Harper & Row社刊)のこと。ソロモーン・ヴォールコフ“編”で、英訳はAntonia W. Bouisによる。ロシア語原文は公刊されていないが、邦訳「ショスタコーヴィチの証言」(水野忠夫訳, 中央公論社, 1980)はロシア語タイプ原稿によっている。

この本は、「ソロモーン・ヴォールコフに対して語られ、彼によって編集されたドミートリィ・ショスタコーヴィチの回想録」とされており、その衝撃的な内容は出版当初から様々な論議を巻き起こしてきた。スターリンをはじめとする体制との軋轢、プロコーフィエフやムラヴィーンスキイらに対するあからさまな罵倒。ソ連という社会主義体制国家を代表する芸術家として従来抱かれてきたショスタコーヴィチ像を真正面から否定するこの本の内容は、西側諸国に「これぞショスタコーヴィチの真実の姿だ」と大きな反響をよんだ。一方、ソ連国内ではこの本が“偽書”であるという抗議の声明が次々と出され、ショスタコーヴィチの公式発言を集めた「ショスタコーヴィチ自伝 時代と自身を語る」(グリゴーリエフ, L.・プラテーク, Ja. (編)・ラドガ出版所訳, ナウカ, 1980.)が出版されるに至った。

その音楽と同様、ショスタコーヴィチという人物が捕え所のない、謎に満ちた人間だったことは、彼に接する機会のあった数多くの人々によって語られている。したがって、『自伝』と『証言』との間に見られる正反対の人格がショスタコーヴィチの中に同居していたと考えることは、決して不自然ではない。また『証言』に描かれているエピソードの数々が、ソ連国内で(公の席で語られることはなかったが)まことしやかに語り継がれてきた(いる)ことも事実のようだ。しかし、『証言』には依然として“真贋論争”がある。

まず、ここでいう“真贋”の意味を明らかにしなければいけない。『証言』を巡る論争には、次の2つの論点がある。

  1. 本当にショスタコーヴィチ自身がヴォールコフに対して語ったのか?
  2. この本に記述されている内容は事実か?

この本がヴォールコフ自身の手によって書かれ、この本の中で描かれているような世界が(多少の誇張はあるにせよ)実際にあったことは、今となっては周知の事実である。したがって、2. の論点に関していえば少なくとも“偽書”とはいえないだろう。しかし、この本のタイトルに“The Memoirs of Dmitri Shostakovich”(邦訳では“ショスタコーヴィチの証言”)と明らかにショスタコーヴィチの名前が記され、加えてヴォールコフ自身が編者序の中で“ショスタコーヴィチ自身がヴォールコフに対して語った”と述べている以上、1. の論点において“真贋”を論じることは避けられない。そして、この点については音楽学者ローレル・E・フェイによるこの本の書評(The Russian Review, 1980.:渡辺佳一氏による邦訳と解説が日本ショスタコーヴィチ協会会報, pp.40-55, 1996. にある)で詳細に論じられ、“偽書の疑いが強い”との結論が下されている。

これらの議論は、『証言』の“面白さ”を損なうものでは決してない。第5交響曲の終楽章に関する記述も非常に納得のいくものであるし、ショスタコーヴィチの作品を鑑賞する上で直接影響するわけではないものの、数々のエピソードは読者の想像を駆り立てる。しかし、『証言』をあたかも聖書のように扱い、それに基づいて「ムラヴィーンスキイは間違った解釈をしている」と決めつけたりすることなどは、愚の骨頂といえるだろう。私個人としては、ショスタコーヴィチに興味を持った人が『証言』を手にすることに何ら抵抗は感じないし、(たとえそれがショスタコーヴィチ自身の言葉ではなかったとしても)悪意に満ちた辛辣な口調を楽しむのもごく自然なことだと考える。だが、それが残された作品の演奏や鑑賞の解釈の拠所とされることには甚だ疑問を感じる。社会体制や思想といった文脈でのみその音楽が評価されることは(もちろん、そういう作品があることは否定できないが)、ショスタコーヴィチの本意ではないと私は思う。


DSCH

ショスタコーヴィチの「音名象徴」。ドミートリィ・ショスタコーヴィチのイニシャルД. Ш. をドイツ語に翻字すると「D. SCH.」となり、“S”を“Es”と読みかえることで「d-es-c-h」というドイツ音名による音列が出来あがる。(下記譜例参照)

DSCH

この音型はヴァイオリン協奏曲第1番作品77の第2楽章に移調された形で登場し、変形された形で弦楽四重奏曲第5番作品92にも使われた後、交響曲第10番作品93の第3楽章以降にそのままの形で登場し、主要主題として幅広く展開されることとなる。ちなみに、ヴァイオリン協奏曲第1番とほぼ同時期に手がけられた「ラヨーク」にも用いられている。作曲年代から考えて、おそらくヴァイオリン協奏曲第1番を最初の使用例といって良いだろう。他に有名な使用例として弦楽四重奏曲第8番作品110と「自作全集への序文とその序文に関する考察」作品123なども挙げられる。

変形された場合も含めると、中期以降の作品の中にこの音名象徴は結構な頻度で登場し、その独特の響きと相まってショスタコーヴィチの音楽を特徴づける一つの要素となっている。明らかに自身の“署名”であるこの音型は、作品の解釈とも密接に関わることが多く、いわゆるショスタコーヴィチの“謎”の一つとして広範な興味を喚起している。加えて、この音型の持つ機能性が偶然とはいえ優れたものであることも忘れてはならない(森泰彦氏による詳細な考察が、隠蔽された内容と隠された音組織の明晰な一致, ショスタコーヴィチ大研究, 春秋社, 1994. にある)。

この「音名象徴」と並んでショスタコーヴィチの作品を特徴づけている要素に、「引用」がある。これには大きく分けて他人の作品からの引用と、自作からの引用との二つがあり、さらに原曲そのままの流用からモチーフやイントネーションの借用など多様な形での用いられ方がされているため、ショスタコーヴィチの創作における「引用」の持つ意味合いは極めて複雑な様相を呈している。ショスタコーヴィチの作品中、この「引用」が非常に重要な役割を果たしている作品はその大半を占め、筆者が知っている分を列挙するだけでも厖大な量にのぼる(もちろん、筆者が気付いていないものがまだまだ存在するだろうことは、いうまでもない)。ここでは、自作からの引用(映画音楽「新バビロン」作品18に引用されたスケルツォ作品7が、おそらく最初だろう)が非常に目立つことが、ショスタコーヴィチの作品において極めて特徴的であることを述べておくにとどめる。

超人的な音楽的記憶力を有し、古今東西の幅広い音楽に親しんでいたショスタコーヴィチによる「引用」の数々は、その大半に何らかのメッセージや意味があると考えるのが自然で、その“謎解き”自体もショスタコーヴィチの音楽を聴く楽しみの一つである。本人による“解説”がない以上、そのほとんどが“邪推”でしかないのは百も承知なのだが…。


 初心者のためのШостакович入門

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Last Modified 2006.05.18

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