組曲「黄金時代」作品22a 解説

ネップ期の混乱から抜け出すべく第1次5ケ年計画が採択され、スターリン自らが「大いなる変革の年」と述べた1929年、ソ連国立劇場の当局は現代生活に基づいたバレエ台本のコンクールを開催した。当時はロシア革命とほぼ時を同じくして始まったロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる芸術運動の末期にあたっており、マヤコフスキー、マレーヴィチ、メイエルホリド、エイゼンシュテインといったほとんど全てのアヴァンギャルド達が、プロレタリア系団体の集中砲火にさらされていた。後は1932年の党中央委員会による「文学・芸術団体の改組について」の決議によって全ての芸術団体が解散させられるのを待つばかりだった。そのような動きの中で成長期のソヴェト・バレエの分野に関わった人々は、もっぱらおとぎ話や伝説ばかりを主題としていたバレエの中に時事的な内容を取り上げるべく、様々な実験を試みていたのだった。

入賞作は映画監督A.イワノフスキーの手による「ディナミアーダ」だったが、それは期待されたような出来のものではなかった。レニングラード・オペラ・バレエ劇場(のちのキーロフ劇場)の芸術政治協議会は、いくつか根本的な書換えを行なうという条件のもとで、この台本を採用した。そして音楽は、当時すでに初期の傑作、歌劇『鼻』作品15や3つの交響曲を作曲し、若手のホープと目されていたショスタコーヴィチに依頼された。しかしながら、ショスタコーヴィチは熱烈なサッカー・ファンであり(写真は、友人達とサッカー観戦をしているショスタコーヴィチ)、また母親のソフィヤ・ワシリーエヴナの影響もあって小さい頃からバレエにも大きな関心を寄せていたため、当初彼はサッカー・チームをめぐるバレエの台本に不満を持ったようである。説得には音楽評論家である親友のソレルチンスキーなどがあたった。

話の大まかな筋は次の通りである(詳しいあら筋については別項を参照)。西側の資本主義国である某国で開催されている工業博覧会『黄金時代』に、とあるスポーツ労働組織によってソ連のサッカーチームが招待される。彼らは労働者達に人気を博すが、ファシスト達は彼らに対して陰謀をめぐらす。ミュージック・ホールでの馬鹿げた踊りやスタジアムにおける各種競技の光景などを織り込みながら、黒人のボクサーや地区の共産党員をはじめとする労働者達とソ連サッカーチームとの友情を描く。そして最後は、ファシスト達の陰謀が西側の共産党員の手によって暴かれ、喜ばしい労働の踊りによって幕となる(写真はバレエの一場面)。

ショスタコーヴィチは、作曲に際して「劇場での音楽は単に『伴奏』するのではなく、積極的に影響を与えなければならない。この法則を守らないということは、音楽の持つ巨大な影響力を考えず、音楽を背景に押しやることを意味する……。私は、単に踊るのに適した音楽を書くのではなく、音楽の本質そのものをドラマタイズし、音楽に本物のシンフォニックな緊張とドラマティックな発展を与えることが不可欠だと考えた」と述べている。こうした意欲的な主張を実現すべく『黄金時代』の公演に携わった人々は、皆無名の若者達であった。踊り手達は、サッカーの試合をはじめとする各種スポーツ大会に足しげく通い、その動きを獲得しようと努力した。ショスタコーヴィチの音楽の難しさは、オーケストラと踊り手の両方に大きな負担を強いたため、当初6月に予定されていた初演は延期された。

1930年10月に行なわれたバレエの初演における観客の反応は非常に良かったが、新聞に発表された批評ではミュージック・ホールのシーンでのブルジョア風の気取った歩き方や振付けのけばけばしさが批判の対象となった。また、古典バレエに馴染んできたファンの耳には、ショスタコーヴィチの“鋭角的な”音楽はいらいらするものとして聴こえたようだ。しかしショスタコーヴィチ自身はその音楽には自信を持っており、知人に宛てた手紙の中で「『黄金時代』の音楽の部分に対して、私は責任を持つことができます。あの作品は、私の見るところ、珍しく成功しているからです(これまで私が書いてきた多くのものと比較しての話ですが)」と述べている。また、バレエの不成功については、「主な誤りは、台本の作者が、バレエ劇によってわが国の現実を表現しようとしながら、バレエ劇ということを少しも考慮しなかった点にあると私は思う。」と述べ、「音楽と舞台が結び付いて全体として音楽劇ができあがるのですが、『黄金時代』ではそれができませんでした。舞台は舞台、音楽は音楽という風にそっぽを向き合っている始末です。このバレエの上演は私に実に多くのことを教えてくれました。私は改めて確信しました。つまり、そんな音楽劇でも、主役を演じるのは音楽であり、もしも芝居の上演がそのことを考慮しなければ芝居は失敗するということを……」というように、舞台と音楽のドラマトゥルギーの有機的な結合が不十分だったことがその大きな原因だと考えた。

その後『黄金時代』はレパートリーから外され、現在に至るまでオリジナルな形での再演は行なわれていない。戦後出版された『ソヴェト音楽概論』という本では、この作品は「ソヴェト的なテーマ設定による形式主義バレエの見本であり、作曲家が関心を持っていたのは芝居の形式のみであり、その内容では決してない」とされ、『黄金時代』は「冒険主義的」作品と規定された。作品に対する記述は次のように辛辣なものである。「このバレエでは、登場人物の音楽的な性格づけが全く欠けている。『黄金時代』の台本にははっきりとした輪郭を持った人物がおらず、登場人物の全ては純粋にエピソード的人物であり、彼らは、常識では説明し難い振舞いをする……。残念ながら、作曲家はとても新しいといえない手法、20年代の形式主義的音楽に幅広く適用されたグロテスクの手法に向かっている……。一個のまとまった音楽劇作品として、作曲家にとって『黄金時代』は文句なしに失敗だった」。

なお、初演から半世紀以上経った1982年にモスクワのボリショイ劇場の舞台に登場した『黄金時代』は、同劇場の芸術監督兼主席バレエ・マスターであるグリゴローヴィチが、グリークマンと共同で作った新しい台本によるもので、ショスタコーヴィチの他の作品も多数用いており、いってみれば新作バレエである。

このようにバレエとしては芳しくない成果しか得られなかったが、当初はソレルチンスキーただ一人が「その技法において際だった作品」と述べていた音楽については、特にスターリンの死後「雪どけ」が始まって以降は、36年のプラウダ批判や48年のジダーノフ批判に象徴されるような過度の「反形式主義キャンペーン」への反省に基づき、正当な評価を下されるようになった。「序曲」「アダージョ」「ポルカ」「舞踏」の4曲からなる組曲作品22aは、現在でも比較的よく演奏会で取り上げられている。

組曲版の初演は、バレエの全曲初演に先立って1930年3月19日に、A.ガーウク指揮のレニングラード・フィルハーモニー交響楽団によって行なわれた。以下に各曲について述べる。

【序曲】

幕が上がる前の序曲と、博覧会場での見物客達の行進。早いテンポによる乾いたフーガは、ショスタコーヴィチ初期の作風の典型である。この導入部は、当時の聴衆を大いに戸惑わせたことと思われる。また主部に入ってからのワルツも、ショスタコーヴィチの面目躍如たるものがある。

【アダージョ】

第1幕でファシストの美人ダンサー、ジヴァがファンの男どもの挨拶に応えて舞う踊り。ソプラノ・サックス、ヴァイオリン、フルートのソロが、彼女の妖艶さと頽廃したフェロモンをまき散らす様を描写している。バリトンの強奏を伴って迎えるクライマックスは、歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」作品29におけるベッド・シーンの音楽を予感させる。

【ポルカ】

第3幕のミュージック・ホールでの余興として踊られる踊りの一つ。1920年のジュネーヴ海軍軍縮会議を風刺した踊りで、「平和の天使」と名付けられている。全曲中で最も有名な曲であり、アンコール・ピースとして単独で扱われる他、作曲者自身によるピアノや弦楽四重奏用の編曲もよく取り上げられる。

【舞踏】

第1幕で、ファシストの美女ジヴァがソ連サッカーチームのキャプテンを誘惑しようとファシストの青年とペアで踊るエロティックでどぎつい踊りに対抗して、ソ連サッカーチームのメンバーが踊る陽気で健康的な踊りである。ハルモニウムと弦楽器によって奏でられるシンコペーションは、ロシアの民族楽器バヤンをイメージしている。


「バレエに社会主義の現実を反映させることは、極めて大事なことだ。……三度目の試みでも不成功に終らぬとは保証できないが、そうなったとしても、私は四回目にもソヴェト・バレエの作品に取り組む計画を捨てはしないだろう」と述べて、ショスタコーヴィチは自身3作目となるバレエ「明るい小川」を発表した。コルホーズを舞台としたこのバレエは、1936年2月にプラウダ紙に発表された「バレエの偽善」という論文で徹底的に批判され、以後ショスタコーヴィチはバレエへの挑戦を全くやめてしまう。同じくコルホーズの農民の姿を描いたマレーヴィチの絵のタイトルが「複雑な予感」というのが、何かひどく象徴的であるように感じられる。

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Last Modified 2007.03.07

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