私が聴いた演奏会記録

年月日団体名演奏曲目会場感想
2019.10.30ストラディヴァリウス・コンサート2019
ベンジャミン・ベイルマン、イム・ジヨン (Vn)
萩原麻未 (Pf)
2つのヴァイオリンとピアノのための5つの小品(アトヴミャーン編)いずみホールいささか過剰な表情付けが意図されていたように思えたが、演奏家の若さゆえか、結果として嫌みのない自然な仕上がりになっていて、リラックスして愉しむことができた。第5曲のアンサンブルは雑然としていたが、そこまでうるさいことを言うべき音楽でもないだろう。若手演奏家2人の演奏はメカニック面では申し分のないもので、強奏部などでコントロールが利いていない音も散見はされたものの、純粋にヴァイオリンの美しさや楽しさを享受することができた。音色という点ではベイルマンの方に魅力があり、イムも精度の高い繊細な演奏をしていたが、私の耳には痩せた音色に聴こえたのが残念。ピアノの地味ながらも手堅い表現力が演奏の水準を引き上げていたことも特記すべきだろう。おじさん好みの容姿ゆえに評価が甘くなっている可能性を否定するつもりもないが、それを差し引いても存在感のあるピアノであった。
2014.4.4大阪フィルハーモニー交響楽団第477回定期演奏会
指揮:井上道義
交響曲第4番ハ短調 Op.43フェスティバルホールこの曲は2000年にも同じ顔合わせで演奏されているが、その時は聴きに行けなかったので、15年近くの時を経て(その間にショスタコーヴィチの交響曲全曲演奏も敢行している)井上氏の解釈がどのように深化したのかを比較することはできないが、TVで放映された全曲演奏時の演奏(2007年12月)を思い起こす限り、解釈の基本線に大きな変化はないようだ。『ショスタコーヴィチ大研究』(春秋社, 1994)の序文で「四番はそのあまりにエゴイスティックな音楽の服装がいくらタコ好きな私もくさくて近づきたくない。いくら才能が大きくても、もろにみせつけ、ひけらかされれば僭越ながら私、降ります。」と書いていた人とは同一人物とは思えないほど、心からの共感に満ち溢れ、生気の漲ったスケールの大きな名演であった。プラウダ批判との絡みで陰鬱な悲壮感のような側面が強調されることも少なくない作品だが、プラウダ批判の記事が発表される前に書き始められたショスタコーヴィチの“初期作品”であることを忘れてはならない。傍若無人で八方破れなやりたい放題の音楽は、何よりとても楽しい。井上氏の指揮はこの楽しさが全編を貫いているのだが、それは彼の個人的な資質とも一致しているからか、“やり過ぎ”にすら思える演出が全てツボにハマっている。指揮台の上で飛び跳ねながら奔放な身振りでオーケストラの持てるエネルギーを最後の一滴まで絞り出そうとする井上氏に対して、オーケストラも極めて献身的に応えていた。技術面でのあら探し的なことはいくらでもできるが、紛れもないショスタコーヴィチの音がホールに鳴り響いていたことに対しては、率直に讃辞を送りたい。ただし、練習時間の大半が第1楽章に費やされたのか、第2楽章以降では楽想の急激かつ頻繁な転換を十分に咀嚼できていない感が否めない瞬間も少なからずあったのは残念。
2012.3.9兵庫芸術文化センター管弦楽団第50回定期演奏会
指揮:井上道義
アンナ・シャファジンスカヤ(S)
ニコライ・ディデンコ(B)
交響曲第14番ト短調 Op.135兵庫県立芸術文化センター大ホール 弦楽器のプルト数は、ほぼ初演時のもの(=モスクワ室内Oの編成)を踏襲していたが、コントラバスだけは倍の4本であった。ただし、ソリスティックな部分については2本のみで演奏していたので、残りの2本はあくまでも強奏時のアシスタント的な役割であったように思われた。率直に言って、この団体には手の余る箇所が少なくなかったようで、技術面の不満が皆無であったとは言い難い。ただ、全曲を通しての集中力は相当なもので、アンサンブル上の難所を乗り切るために期せずして集中度が高まったという側面も否定できないにせよ、それでも聴き手を舞台に釘付けにさせるに足るだけのエネルギーが放出されていたことは事実。総じて、よく健闘していたと言うべきだろう。
歌手の後ろについて、いつもながらの所作で舞台に登場した井上氏は、緊張感を漲らせつつも、わりと無造作な自然体で振り始めた。しなやかにフレーズを流していく一方で、ここぞという箇所では和声やリズム、音色などを思い切り強調して大見得を切る自在さは、氏一流のものである。ともすれば表面的な効果に終始しそうな表現が、いずれも音楽に深い彫りを与えていたのは、さすがとしか言いようがない。全体を通して、生気に満ちた積極的な音楽の運びが印象的であったが、それはおそらく、氏がこの交響曲を単に死の諸相を描いた作品とは捉えていないということなのだろう。
舞台上に投影された字幕(一柳氏による、詩の要点を簡潔に押さえた秀逸なもの)を見ながら音楽に身を委ねていると、ある一組の男女のドラマが明確に浮かび上がってきた。不測の死が訪れた2人の死に様は、聴き手に「いかに生きるべきか」を強く訴えかける。井上氏の解釈は、まさに「生」が強く意識される点で、この作品の本質に鋭く迫っていると言える。
歌手2人は、とても素晴らしい出来だった。シャファジンスカヤは、特に第4楽章以降で、声質、声量、表現力のいずれをとっても文句がなかった。アレクサーシキンの代役を務めたディデンコも、若々しい声の張りと考え抜かれた表現の両方が傑出しており、井上氏の音楽に一層の深みを与えていた。
聴衆は……やはり健闘したと言っておくべきか。舌なめずりしながらショスタコーヴィチを聴きに来たような人は、少なくとも金曜日の公演会場で目に付くことはなく、大半が編成の小ささと音楽の異様さに意表を突かれたであろうことは想像に難くない。第1楽章の冒頭が始まるや否や押し殺した咳払いや落ち着かない衣擦れの音が聞こえてきたことが、その証である。第7楽章の中間部では、おそらく極度の静寂に緊張も極限に達したのであろう、コル・レーニョのフレーズが終わってチェロの旋律が入ると同時に、曲の最中であるにも関わらず、盛大な咳払いが始まったのは微笑ましくすらあった。
「皆、ウィンナワルツが大好きなんです。ショスタコーヴィチもそう。ショスタコーヴィチをやりますが、安心してください。短いですから」。という口上で笑いを誘った井上氏が振り始めたアンコールは、ショスタコーヴィチがオーケストレイションをした「観光列車」。いきなりトロンボーンがはずしたのはどうかと思ったが、快速テンポでスタイリッシュにまとめた演奏は、万雷の拍手を受けていた。当日の最後に演奏された「ラ・ヴァルス」からの流れを考えるとごく自然な選曲だが、第14番のことだけを考えて足を運んだこともあって、予想だにしていなかった。思わぬところで実演を聴けて、大満足。
J. シュトラウス「観光列車」の編曲
2011.5.21兵庫芸術文化センター管弦楽団第43回定期演奏会
指揮:井上道義
ヴァイオリン独奏:ボリース・ベルキン
ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調 Op.77兵庫県立芸術文化センター大ホール ショスタコーヴィチの音楽を楽しむには不足しなかった、といったところ。ヴァイオリン協奏曲は、ベルキンの独奏の線の細さと技術的な不安定さに不満があったものの、独特の確信に満ちた解釈には相応の説得力があった。井上氏との息もよく合っており、両者共に納得の上での演奏だと思われた。ただ、随所に聴かれる自由な弾き崩しは、僕にはあまりに感覚的に過ぎるように感じられた。井上氏はポイントで芝居がかったアクションを見せるものの、基本的にはベルキンにピタリと合わせる堅実な指揮であった。もっとも、第2楽章や第4楽章におけるアンサンブルの難所で極めて明確にキューを出していたところを見ると、オーケストラのフォローに随分気を配っていたことも窺えた。第4楽章で危ない瞬間もなくはなかったが、まずは無難にまとめていたと言ってよいだろう。ショスタコーヴィチのテンポ指示は、その前後の処理について不親切なので、漸次的な加速/減速をして滑らかにテンポを変える解釈と、ギアを入れ替えるように一気にテンポを変えてしまう解釈とがあり得るが、この日の演奏は後者のパターン。ただ、その全てが成功していたとは言い難く、たとえば第2楽章のコーダではオーケストラがついていけずに元のテンポに戻ってしまったのは残念。第3楽章ではパッサカリア主題を執拗に強調していたが、クライマックスで主題を奏でる独奏ヴァイオリンを引き立たせるためにオーケストラの音量を絞ったのは、ベルキンの線の細さもあって、音楽の流れという点で共感しかねた。
メインの交響曲第1番は、意図するところを全身で表現する井上氏の指揮を楽しんだ。アンコール前に井上氏が客席に向かって語った言葉の中に、「いびつな19歳」という表現があったのだが、まさにその"いびつさ"をデフォルメし尽くそうという意欲が舞台上から溢れ出さんばかりの指揮姿であった。……のだが、笛吹けど踊らずとはこのことで、オーケストラがその意図を音にすることができておらず、聴こえてくる音楽は、ごくありきたりの滑らかに整ったもの。この指揮者とオーケストラとの間の齟齬は、井上氏が意図した"いびつさ"と全く異なることは言うまでもない。ロシアの伝統的な交響曲の系譜に連なる作品であることを思い起こさせるような演奏であったと、結果としては言えなくもないが、それがオーケストラの表現力の欠如に起因しているのであれば、是とするわけにはいかないだろう。唯一、手放しで賞賛したいのは、チェロのゲスト・トップ・プレイヤーとして出演していた林 裕氏のソロ。第3楽章と第4楽章のソロは、全てにおいて世界水準であった。
アンコールは、小じんまりとまとまった演奏。金管楽器の音色は、悪い意味でのブラバン的な無色透明さで、実際に聴こえてくる音量にもかかわらず、スコアが持つ威圧的な響きが表出されていないのは大いに不満。ただ、音がはずれないという次元での精確さは確保されていた。もっとも、メインの交響曲ではトランペットが残念な出来ではあったが。
交響曲第1番ヘ短調 Op.10
交響曲第10番ホ短調 Op.93より第2楽章
2005.6.13モスクワ放送交響楽団
指揮:ウラディーミル・フェドセーエフ
交響曲第10番ホ短調 Op.93兵庫県立芸術文化センター大ホール 最後列にコントラバス(9人)が一列に並び、その前に下手側からTp、Tb、Tub、Hrと金管楽器が並ぶ。打楽器群は舞台上手側。弦楽器は対向配置で16型+α。
前半終了後の休憩中、舞台上では、FlのフェドートヴァとObのパーニンが第3楽章の第1主題を丹念に合わせている。丁寧にイントネーションを整えていく様は、まさに一流のプロの仕事。その後ろではFgが、第4楽章コーダ直前のパッセージを合わせている。時間になり団員が登場し、チューニングが始まると、今度はTbが第1楽章展開部の終わりのコラールを合わせている。団員のショスタコーヴィチにかける気合が窺えるようで、否が応にも期待は高まる。
第1楽章。冒頭の一音から張り詰めた緊張感に貫かれた、しなやかな弦楽器の美しさが際立つ。オーケストラが一体となった音楽のうねりは見事。第1主題を提示するClのペルミャコフの超弱音は、腰が抜けるほどの圧倒的な名技。流麗でありながらも、決して上滑りすることのない音楽が繰り広げられていく。噛み締めるように何度も呻きを繰り返しつつ壮大なドラマを積み重ねていく息の長い音楽作りは、ロシアの団体ならではのものだろう。木管楽器の美しくも悲痛な鋭い響きと厚みのある弦楽器の透明な響きは、これぞショスタコーヴィチ。顔を真っ赤にして切々と吹き込むFgに導かれて、いよいよ展開部。なんという哀しい音楽なのだろう。聴きながら、涙を堪えるのが精一杯。ガロヤンのTimpが意味深い楔を打ち込み、金管楽器が威圧的にそびえ立つ。圧倒的な音響の中で切なく悲鳴をあげ続ける木管楽器と、とどまることなく感情を爆発させ続ける弦楽器の美しさ。これらが一体となって押し寄せて聴き手を飲み込む。圧巻は、再現部以降の緊張感漲る静寂。このコンビでしかなし得ない至高の境地といえるだろう。この楽章が終った後、尋常ではない緊張感からの解放された客席は、猛烈にざわついた。
続く第2楽章は、やや遅めのテンポ。しかし、楽章の暴力性は極めて適切に表出されている。サモイロフの小太鼓が、実に見事。硬質な鈍器を思わせる金管楽器の魅力もさることながら、木管楽器の巧さには舌を巻く。この解釈だと、短すぎるといわれるこの楽章のアンバランスさが気にならない。全弦楽器が弓を大きく空中に放り出すようなエンディングは、視覚的にも効果抜群。
第3楽章の多彩な響きは、名手揃いのこのオーケストラならではだろう。また、ひねくれたワルツのリズム感を一体となって繰り広げるアンサンブルも凄い。Hrのソロは特筆すべき出来。最初のE-A-E-D-A音型の英雄的な吹きっぷりと、その後の痺れるような弱奏が素晴らしかった。もちろん、楽章を通じてノーミス。てっきりガールキンが吹くのだとばかり思っていたのだが、お亡くなりになっていたようで、名前を知らない奏者だったのだが、これならガールキン亡き後のホルンセクションも安泰だろう。最初のソロの後、おそらくはフェドセーエフとのアイコンタクトがあったのだろう、にやりと微笑んだ顔が印象的だった。壮麗なクライマックスの後の終結部では、コンサートマスターのシェスタコフの音色も美しく、DSCHのピッツィカートを強調しながら余韻を残しつつ、この楽章が終った。
第4楽章では、木管楽器の鮮やかさに終始圧倒された。奇妙に明るい曲調の意味も完全に消化されていて、完全に納得させられる解釈に大満足。コーダの途切れながら何度も踊り始めようとする部分のギクシャクした感じは秀逸。終わりが近づくにつれ、このままずっと音楽が続いて欲しいという思いで切なくなってしまったほど。最終和音の後、ブラボーが乱れ飛び、あちこちでスタンディングオベーションが見られたのも当然の大名演であった。それにしても、わりと年配の聴衆が多かったにもかかわらず、ショスタコーヴィチでこの盛り上がりとは。
アンコールは、マニアにはたまらない選曲。「条件付きの死者」のワルツは、録音もしているだけに、彼らにとってはお得意のアンコールピースなのだろう。サックス、ピアノ、グロッケンシュピールをこの曲のためだけに追加した心意気が嬉しい。CDよりも一層ゆったりとしたテンポで、雰囲気豊かな弱音で奏でられた音楽にはうっとり。シンバルと小太鼓を担当したサモイロフの名技が目をひいた。「坊主とその下男バルダ」の行進曲は、組曲には収録されていない曲。オペラ版では第2幕エピローグの最初で「バルダの入場」とされている。管・打楽器のみによる短いが気の利いた曲で、とても素敵な選曲。勢いのある早目のテンポが楽しかった。2曲ともフェドセーエフ自身による紹介あり。「ショスタコーヴィチ、ワルツ」「ショスタコーヴィチ、マーチ」という言葉で、これらの曲を想定できた聴衆はおそらく皆無なのでは?バルダの行進曲の前には「もう一曲ショスタコーヴィチ、いきますよ」といった雰囲気のフェドセーエフの言い方に、客席からも和やかな笑いが起こっていた。
とにかく、猛烈に巧いオーケストラに大満足。アインザッツの隅々まで完璧に統率された鉄壁のアンサンブル…というわけではなく、むしろ緩さもあるのだが、全セクションがごく自然に一体化したアンサンブルは、オーケストラらしからぬ水準である。こういうリズム感を表出できる団体は世界中でも稀だろう。デュナーミクの幅の広さも凄い。唯一不満があったとすれば、Tpくらいか。それだって、贅沢な要求には違いない。
劇音楽「条件つきの死者」Op.31より「ワルツ」
映画音楽「司祭とその下男バルダの物語」Op.36より「バルダの行進曲」
2005.6.13ボロディーン弦楽四重奏団弦楽四重奏曲第15番嬰ハ短調 Op.144ザ・フェニックスホール演奏に先立ち、演奏者が退場しても拍手はしないように、とのアナウンスあり。入場後、舞台も照明を落として譜面台にライトを灯しての演奏が始まった。
凄いというか、もう何も言えません。出だしから延々とノンビブラートで異様な緊張感が漲り、それに耐え切れない客席はどうにも落ち着かない様子。もっとも、しばらくしたら、脱落して寝始める人が増えてきたのでよかったが。
もちろん、細かいことを言えば完璧とまでは言えない演奏だったかもしれない。だが、これほどまでにこの異様な作品の音楽世界を暴き出してくれる演奏が、他にあり得るとも思われない。死体の腐敗臭が漂うような第1楽章では、第二主題以外は終始ノンビブラートが貫かれ、調性的な音楽なのにどこにも身の置き所のない非現実感が見事に表出されていた。天国でもなければ地獄でもない、生きているわけでもなければ死んでいるわけでもない。そんな居心地の悪さは、第2楽章でクライマックスを迎える。断末魔のうめき声のような音列に続いて、何度もワルツを踊ろうとするもののすぐに力尽きてしまう様は、無骨でぎこちない(決して年齢的な衰えを指しているのではない)ベルリーンスキイのチェロがいたたまれないほど適切に描いていた。この演奏を聴いて初めて、この楽章がわかったような気がする。そして第3楽章の苦しさに満ちた絶叫。続く第4楽章の腰を抜かすほどの美しさ(アブラメンコフの名技!)。それらを受けて出てくる第5楽章の「月光」。モノローグだけでひたすら時間と空間を埋め尽くすこの作品の奇妙さが、類まれな説得力を持った音楽としてホールを満たしている状況に、確かに蒸し暑い夜ではあったが、それでも空調がきいていた会場で、冷や汗ではなく、脂汗を何度も拭わずにはいられなかった。生の力はもはやどこにもなく、無気力というより、やはり死んでいるとしか言いようのない第6楽章が終わった後、たとえ事前のアナウンスがなかったとしても、拍手をできる聴衆などいるはずがなかっただろう。
67歳で既に死者の目で音楽を紡いだショスタコーヴィチの作品を、80歳を超えてまだまだ元気なボロディーンQのチェリストが真摯に弾いている姿は、感動的でもあり、また邪悪な倒錯も感じずにはいられなかったが、ともかくも素晴らしい音楽であった。
アンコールはショスタコーヴィチの第1番から第1楽章。最後の四重奏曲の後に最初の四重奏曲というのは、なかなか洒落た選曲。音楽の作りは第15番の第1楽章に共通するものがあるが、やはり第1番は現世の音楽。どこか救われた。
終演後、一階ロビーでサイン会が行われた。現メンバーのCDは持っていなかったし、DVDはジャケット等が黒なのでサインに不向き、ということでサイン用に持っていったのが、ショスタコーヴィチの第15番のパート譜セット。サインは、ベルリーンスキイ、アハロニャーン、アブラメンコフ、ナイディンの順番だったのだが、そこでのベルリーンスキイとのやり取りが楽しかった。
ベ:(楽譜を見て、僕の顔をじっと見つめながら)「You played?」
僕:「Yes. I played the 1st Vn.」
ベ:「Oh. 1st Vn...」(横でアハロニャーンがにやにやしている)
ベ:(しばらく楽譜を見てから、冒頭を指差し)「Play non-vibrato?」
僕:(にやっとしながら)「Yes, of course.」
ベ:(くすりと笑って)「Very good.」(横でアハロニャーン、下を向いて笑っている)
弦楽四重奏曲第1番ハ長調 Op.49より第一楽章
2004.2.13大阪フィルハーモニー交響楽団第375回定期演奏会
指揮:大植英次
交響曲第7番ハ長調 Op.60ザ・シンフォニーホール会場は満席。終演後の拍手も盛大で評判も良かった様子。しかし、率直に言ってどこが良かったのか、僕にはさっぱりわからない。12日に続く2回目の公演にもかかわらず、アンサンブルは雑だし、音楽の流れも感じられなかった。音楽の流れについては、大植の解釈によるところも大だろう。フレーズの切り方が不自然で、ショスタコーヴィチの息の長い旋律線が生きていない上に、例えば第2楽章でフルートと弦楽器のフレージングが異なるなどの不徹底が目立った。両端楽章の標題性を排除するような解釈は決して悪くないが、逆に中間楽章を標題的に捉えているのは大きな間違い。両端楽章で、いびつなソナタ形式に込められた劇性がことごとく寸断されていたことも、大植のショスタコーヴィチに対する適性に疑問を抱かせるには十分。常任指揮者が代わってからの大フィルにも期待していたが、金管楽器の不安定さ、木管楽器のピッチの悪さ、弦楽器の統一感のなさ、いずれをとっても改善された点が感じられなかった。座席(AA列の上手側端)のせいもあったのかもしれないが、艶と響きに欠ける音色も不満。2004〜2005年のシーズンでは第10番が演奏されるようだが、今回の印象を払拭してくれるような名演を期待します。
2000.4.15NHK交響楽団
指揮:エリアフ・インバル
ヴァイオリン独奏:ドミートリイ・シトコヴェツキイ
ムーソルグスキイ/歌劇「ホヴァーンシチナ」のオーケストレイション Op.106から前奏曲「モスクワ川の夜明け」神戸国際会館こくさいホールショスタコーヴィチ没後25周年を記念したプログラム。N響定期と同一のプログラムだが、神戸公演は「第5回NTT西日本N響コンサート」と題された冠コンサートであった。冠コンサートにありがちな聴衆の質の悪さ(特に曲目が曲目だけに)を心配したが、全くの杞憂。これならば、「死の歌と踊り」と交響曲第10番のプログラムを持ってきても大丈夫だったのではないだろうか(とはいえ、自分が主催者だったらやはり不安には違いないが(^^;)。
1曲目のムーソルグスキイは、出だしこそピッチの不揃いや一体感の欠けたアンサンブルに不安を感じたものの、中盤からは安定した演奏となった。インバルの指揮は、特にオーケストレイションの妙を強調することなく、ごく自然に音楽をまとめあげていた。個人的にはピッチカートとハープの引き継ぎなど、ショスタコーヴィチの見事なオーケストレイションを楽しんだが、それがムーソルグスキイの音楽として違和感なく提示されていたところに好感が持てた。
一方、2曲目の協奏曲には多いに不満が残った。最大の原因はシトコヴェツキイの技術。強音で音が潰れて前に出てこないため、ショスタコーヴィチの特徴でもある息の長いフレーズのイントネーションが適切に表出できなかった。また、だらしのないポルタメントの多用もフレーズを分断する結果となり、特に第1楽章では緊張感を欠いた音楽となってしまった。この楽章はノクターン(夜想曲)と題されているが、作曲当時の背景を考えてもショスタコーヴィチはこんなに甘ったるい音楽を夜に想っていたはずがない。インバルは和声のバランスなどに興味を惹くような処理をしていたが、全体にデュナーミクの幅が狭かったために、その効果が伝わりづらかったことは否めない。第2楽章は、決定的に切れ味不足。トリオでのオーケストラの強奏があまりにも唐突に聴こえてしまうなど、この楽章の魅力が発揮されたとは言いがたい。以下の楽章についても同様。テンポや解釈の問題ではなく、あくまでもソリストの技術的な問題だと感じた。オーケストラは堅実な演奏で伴奏に徹していて少々物足りなかったが、今回は致し方のないところだろう。
メインの交響曲第5番は、N響の実力を遺憾なく発揮した名演となった。第1楽章冒頭から、実に充実した響きがしていた。良く言えばまろやかにブレンドした、悪く言えば色彩感のない響きは筆者がショスタコーヴィチに求めているものとは異なるが、安定した技術に基づく破綻のないアンサンブルは文句なしに素晴らしい。第1楽章は早目のテンポの中で旋律を歌い込ませていたのが印象的。クライマックスも威力十分で大いに盛り上がった。かなり早いテンポのコーダで客席共々緊張感が欠けたのが残念。第2楽章では、主部とトリオの両方でフレーズの終りの処理が特徴的で面白かった。これはインバルのCD等でも聴かれるもの。もちろん、実演の方が意図がよく伝わる。第3楽章は、冒頭から徹底して歌に満ちた演奏。恐ろしいまでに透徹した緊張感とは無縁の演奏だったが、これはこれで十分に美しく、楽しめた。第4楽章冒頭では、スコアに忠実なインバルのテンポ変化にオーケストラがついていけず、アンサンブルに乱れが見えたのが惜しい。しかし、それ以外については実演としては完璧といって良い出来で、大いに盛り上がった。聴衆がこの曲に求めているものの大部分を何の衒いもなく素直に、かつ見事に音にしていたという点で素晴らしい仕上がりであった。筆者の趣味とは必ずしも一致しない部分もあったが、これだけ充実した演奏にケチをつけるのは野暮というもの。大変満足して家路につきました。
ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調 Op.77
交響曲第5番ニ短調 Op.47
1999.7.5レーピン/ヤブロンスキー/ベレゾフスキートリオピアノ三重奏曲第2番ホ短調 Op.67ザ・フェニックスホール当初はチャイコフスキー→ショスタコーヴィチの順番でプログラムが発表されていたが、当日曲順が入れ替わった。理由は分からないが、ショスタコーヴィチ目当ての聴き手にとっては必ずしも良い結果とはならなかった。朗々と楽器を鳴らして始まるチャイコフスキーに比べ、最弱音から始まるショスタコーヴィチは、演奏会のオープニングとしては演奏者にとってやはり困難な側面があったのだろう。出だしのチェロのハーモニクスは、水準以下。しかし、続くレーピンが絶妙のヴィブラートを駆使してG線をかけ上っていくのにまず驚愕。その後チェロは今一つ調子の出ないまま主部に入る。途中レーピンが1小節間違いそうになったが、それ以外は極めて高い水準の演奏。第2楽章は文句なし。とにかくレーピンが凄い!第3楽章で1小節毎にヴィブラートの種類を変えていく様は圧巻。そして第4楽章の胸を締め付けられるような高揚感は筆舌に尽くしがたい。途中8分の5に拍子が変わるところでピアノが1小節早く飛び出したのは残念。また、前半はヴァイオリン、チェロともに音が引っくり返ることがあり、楽器のコンディションがホールに馴染んでいないように思われた。しかし、解釈自体はすべてツボを押えた、最良の意味での模範的なもの。ショスタコーヴィチ本人が聴いたら喜んだのではないか。とはいえ、何よりもレーピンの格の違いをまざまざと見せ付けられた演奏会だった。どんな強奏でも絶対に汚い音はせず、それでいてどの楽器よりも音が響き渡る。自由自在の右手は理想的なフレージングを紡ぎ出す。決して情感に溺れない節度ある音楽性は曲の風格をも高めている。いずれをとっても当代随一のヴァイオリニストであることは間違いない。
1999.7.4モスクワ放送交響楽団
指揮:ウラディーミル・フェドセーエフ
交響曲第5番ニ短調 Op.47ザ・シンフォニーホール 何と巧いオーケストラなのだろうか。早いパッセージで弦楽器に乱れが散見されたが、何よりもピッチが正確なので非常に聴きやすい。このコンビの特徴でもある強力な金管セクションは完璧なテクニックで聴くものを圧倒するし、木管セクションの繊細な表現力には無条件に舌を巻く。特にホール中に響き渡る弱音は最高!よく統率のとれた弦楽器にも大変感心した。加えて各パートのバランスが非常に良い。25年かけてこのようなオーケストラを作り上げたフェドセーエフの手腕に拍手を送りたい。
さて、肝心の演奏だが、これまた模範的な解釈であった。第1楽章では、出だしから密度の高い音で推進力に満ちた音楽が素晴らしい。ピアノと指揮者とのコミュニケーションがうまくとれなかったのか、途中でアンサンブルが乱れたが、テンポを落したマーチの部分の格好良さはこの楽章の白眉。再現部以降のホルン、フルート、ヴァイオリンのソロも完璧。特にホルンは「これぞMRSOサウンド!」という音を聴かせて圧巻。フルート(美人奏者のフェドトヴァ)の表現力も凄い。第2楽章は、聴いていて思わず体が動き出すような、真性のロシアン・スケルツォ。オーケストラ全体が全く同じリズムを感じて演奏しているため、ホール全体が一つになって踊りだしたかのようであった。大変素晴らしい演奏のシメは、「どこ指しとんねん!」とつっこみたくなるような、フェドセーエフの決めのポーズ(^^;。しかし、何といっても当日の白眉は第3楽章であろう。まずピッチが正確なので安心して響きを楽しむことができたのが何より。そしてことさらに横の流れを強調しないことで、曲の雰囲気がごく自然に表出されていた。しかし、それでも十二分に抒情がにじみ出てくるところが現在のフェドセーエフの境地なのだろう、大変感心した。中間部、弦のトレモロの上で漂うオーボエ、クラリネット、フルートはもう文句なし。ムラヴィンスキーだと何か地獄の深淵を覗かせるような凄みがあるが、フェドセーエフのは何と人間的なのだろうか。ショスタコーヴィチの高潔さ(実際はどうか知らないが(^^;)を感じさせるような、天上から聴こえてくる人間の歌といった感じ。それだけに、その後の慟哭が効果的だった。コントラバスの強奏もツボを押えていて良かった。ただし、第4楽章へのつなぎの部分の解釈には若干疑問が残った。客席の集中力がやや切れかかっていたこともあって、若干落ち着かないまま次の楽章へ行ってしまったように思えた。もっと最後のハープの音の余韻を聴きたかったのに…。ただ、あの余韻を掻き消すブラスの響き、というのは確かに解釈としては成立するとは思う。また、出だしの第3ヴァイオリンにミスがあったのもちょっと残念。最後の第4楽章は、MRSOの本領発揮、といった感じで、アシスタントなしで吹き切るトランペットの実力(全くといってよいほどミスはなかった)に感心しながら、快速のテンポに身を委ねることができた。再現部を意外な程あっさりとすませた後に現れる快速のコーダは、独特の説得力に満ちていた。
オーケストラと指揮者との理想的な関係が見えるようなこのコンビ、ブラヴォー!!!
1999.5.28エマーソン弦楽四重奏団弦楽四重奏曲第3番ヘ長調 Op.73いずみホール第1ヴァイオリンはセッツァー。全体に音色と呼べるようなものはなく、ひたすら勢いで押すタイプの演奏。ただ、音程の取り方やポジションの選択などには周到な練習の跡が見て取れた。チェロがアンサンブルをリードしているようで、要所で睨みを効かせる様は、弦楽四重奏に対する深い愛情を感じさせた。ヴィオラも音楽を非常に楽しんでいる様子。些細なパッセージも嬉々として演奏していた。第2ヴァイオリンのドラッカーも、その細身の音で楔を打ち込もうとしているし、セッツァーはアンサンブルのまとまりを重視した音楽作りが好ましい。しかし、彼らの奏法に起因する、まるで鼻唄のような音の軽さ(特に中低弦)が致命的。弱奏部では音色がないためにショスタコーヴィチ独特の響きが創出できず、結果として強奏部では力任せに演奏する以外の方法がなくなっており、大変残念。リズム感もどことなく腰の落ち着かないもので、満足できなかった。彼らのスタイルには、この曲は合わないのであろう。ただし、全体を通してみても、彼らがなぜ世界的な団体として評価されているのか全く分からなかったが。
1998.9.22大阪フィルハーモニー交響楽団第321回定期演奏会
指揮:井上道義
交響曲第15番イ長調 Op.141フェスティバルホール大阪は、この曲の国外初演の地。残念ながら、この演奏はそれにふさわしくないものだった。1楽章は音符が多いこともあり、大フィルが井上にしごかれた跡が見受けられたが、2楽章以降の薄いスコアになると個々の技量の低さが露呈し、聴くに耐えなかった。2楽章のトロンボーン、3楽章のヴァイオリン、いずれも要求されている水準をはるかに下回っていた。前プロのリストのピアノ曲もよく分からない曲・演奏だったし、大型台風の中わざわざ行くほどのものではなかった。
1997.4.14京都市交響楽団第393回定期演奏会
指揮:井上道義
交響曲第12番ニ短調 Op.112京都コンサートホール大ホール曲が曲だけにあまり期待はしていなかったのだが、やはり生で聴くショスタコは格別だった。金管や打楽器の強奏もハマっていたが、井上の曲理解の深さが成功の大きな理由だろう。全楽章に渡って緊張感に満ち、大変楽しい演奏会だった。一柳氏によるオタクな別刷り曲解説も素晴らしかった。
1996.12.22ウラディミール・コシューバ(org.)パッサカリア京都コンサートホール大ホールこの曲をナマで聴く機会はめったにない。早めのテンポで一気呵成に弾き切ったという印象。もっと深いものが表現されても良かったと思うが、でも、パイプオルガンの生の迫力には圧倒された。また、チャイコフスキーの「花のワルツ」などと並んで演奏されたため、ショスタコの凄さがより一層際立ったのも、僕には良かった。
1996.10.29ベルリン・フィルハーモニー弦楽八重奏団弦楽八重奏のための2つの小品 Op.11 より「スケルツォ」京都コンサートホール大ホールなかなか生では聴く機会がないだけに、この曲をアンコールとして取り上げてくれたことだけでも演奏者に感謝しなければならない。小型ベルリン・フィルと言っても良いくらいピッチの取り方やリズム感はベルリン・フィルそのものだったが、この曲の場合はそれがむしろ良い方向に発揮されたようだ。静かな部分での1st Vcのソロには、知人の女性が「あんなソロを弾かれたら、コロッとイってしまいそう」と漏らした程。コーダの盛り上げもバッチリで、会場は大変盛り上がった。ブラボー!
1996.10.23ボロディーン弦楽四重奏団弦楽四重奏曲第7番嬰ヘ短調 Op.108ザ・シンフォニーホール素晴らしかった。彼らのショスタコーヴィチ演奏は完成の域に達しているといっても良い。7番2楽章におけるグリッサンドの美しさは、まさに息を飲むほどのもので、これこそ実演でしか味わえないものであろう。8番4楽章でのチェロのソロも最高。文字通り胸をかきむしられた。7番と8番の間をほとんど取らずに続けて演奏したのも効果的だった。聴衆の質も良かったのが何より。最後のアンコールまで楽しむことができた。ヴィオリストが新人だったが、ところどころ音色の違和感があったものの、周りに助けられて十分にその役目を果たしていたといえよう。ヴァイオリンのコーペリマンは、この後東京クァルテットに移籍。この意味でも記念的な演奏会であった。
弦楽四重奏曲第8番ハ短調 Op.110
弦楽四重奏のための2つの小品
1994.5.23京都市交響楽団第364回定期演奏会
指揮:井上道義
交響曲第13番変ロ短調 Op.113京都会館第1ホール安い席を当日券で買おうと思っていったら、ホールの前で友の会の方に、「S席が余っているから、あげる」といって特等席のチケットをもらった(^^)。おかげで京都会館の劣悪な音響にもそれほど悩まされずに聴くことができた。それにしても、この曲は本当に巨大な大傑作だ。どの一音からも人間のあらゆる感情がにじみ出ている。演奏もその価値を損なわない大熱演。全てがツボにはまっていた。アレクサーシキンの独唱も素晴らしかった。朗々としかし繊細さを失わない歌唱は、この大傑作にふさわしいものであった。忘れ得ぬ一夜であった。
1992.10.22ショスタコーヴィチ弦楽四重奏団弦楽四重奏曲第4番ニ長調 Op.83京都府立文化芸術会館「8番のように頻繁に演奏される曲ではなく、ちょっと凝った選曲を」という主催者側の依頼で、こんな素晴らしいプログラムが編成された。が、あまりに聴衆のレベルが低すぎた。13番では、聴衆の一人が咳をしたのを皮切りに、一気に客席の集中力が途切れ、後半のヴィオラ・ソロの時にざわつきが最高潮に達した。ヴィオリストが客席を睨みつける一瞬も。曲理解、音色、技術ともに素晴らしかっただけに残念だった。アンコールには「アンダンテ・カンタービレ」が演奏されたが、僕としてはせっかく通好みのプログラミングをしたのに、アンコールで急に通俗的な曲を選んだことに少しがっかりした。演奏自体はノン・ヴィブラートが効果的に使われていて、なかなかだった。帰り道、「アンコールは良かったんだけどなぁ」と言っているオッサンに遭遇。殴ってやろうかと思った(^^;。
弦楽四重奏曲第13番変ロ短調 Op.138
弦楽四重奏曲第9番変ホ長調 Op.117

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Last Modified 2019.11.02

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