偉大な個性に奉仕した創造者達
―ショスタコーヴィチとピアソラを支えた演奏家達―
(2000年11月18日)


【はじめに】

音楽を聴く愉しみ、そして演奏する愉しみは、今さら筆者が繰り返すまでもないだろう。拙いながらも自ら演奏を嗜む者として筆者は、ある作品を聴く時にいつもその演奏者のことを思い浮かべる。いかに偉大な作品でも、その内容を的確に引き出すことのできる演奏家なくしては真に偉大な作品として存在することはできない。このことは、作曲家と演奏家との役割分担が明確になった二十世紀において、特に強調される。本文では、そのような傑出した演奏家と共同作業する幸運に恵まれた二人の作曲家を取り上げる。一人は、今年没後二十五周年という記念の年を迎えた、今は亡きソヴィエト社会主義共和国連邦が生んだ二十世紀最高の作曲家ドミートリィ・ドミートリェヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906−1975)、そしてもう一人は、来年生誕八十周年を迎える現代タンゴの巨匠アストル・ピアソラ(1921−1992)である。

彼らの音楽活動は、ごく初期を除くほぼ全てに渡って「録音」という形で現在に遺されている。特にショスタコーヴィチとピアソラの場合、彼ら自身の演奏あるいは彼ら自身が関わった演奏が決定的なものだけに、このことは作曲家自身にとってだけではなく、我々後世の音楽愛好者にとっても大きな意義がある。CDが広く普及したおかげで、現在我々はそうした演奏を手軽に耳にすることができる。以下では、ショスタコーヴィチとピアソラという二人の偉大な個性に奉仕しつつ、共に至高の芸術を創造することのできた演奏家達について、字数の許す範囲でその演奏の素晴らしさを語りたい。

【ショスタコーヴィチと「彼の」演奏家達】

「血の日曜日」の翌1906年に生まれ、ブレジネフ政権下の1975年に死去したショスタコーヴィチの評価は、ソ連という国家体制への関わり方と不可分なものとされてきた。生前は、社会主義労働英雄という国家最高の称号の一つを与えられた「当局の御用作曲家」的な見方が支配的で、それ故にその創作活動そのものが批判の対象となることもあった。一方作曲家の死後は、亡命ロシア人音楽評論家のソロモーン・モイセーエヴィチ・ヴォールコフがアメリカで出版した『ショスタコーヴィチの証言』に代表される、体制の犠牲となった悲劇の天才という捉え方が主流となっている。

しかしながら人間ショスタコーヴィチについては、作曲家の芥川也寸志が寄せた追悼文を引用するだけで十分であろう:「天才の苦しみは、天才にしか分かるまい。それでも私は、彼の作曲生活がどんなに苦しかったことだろう、と思わずにはいられない。あの善良そのもののまなざしや純粋な音の世界に没入していく時の姿をおもい起こすにつれ、彼が生きた時代とおそらく彼を傷つけ続けた時代そのものをも、切り拓いていかねばならなかったその苦しみは、どんなにかつらかったことだろうと思う」。これは、簡潔ながらもショスタコーヴィチの本質を鋭くついた、含蓄のある名文である。

前置きが長くなったが、極めて繊細な音色の感覚を持っていたショスタコーヴィチにとっては、初演を担当した優秀な音楽家達の音そのものが彼の音楽に必要不可欠な要素であった。まず初めにエヴゲーニイ・アレクサーンドロヴィチ・ムラヴィーンスキイ(1903−1988)の名を挙げるのに、異論のある人はいないだろう。彼の指揮したレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団によるショスタコーヴィチ演奏は、いずれも聴き逃すことはできない。強靭で澄み切った弦楽器、鋭く響き渡る木管楽器、強烈な吹き上げが耳に残るアクの強い金管楽器。そして、驚嘆すべき快速テンポの中で繰り広げられる精緻で完璧な合奏能力。徹底してロシア流儀でありながらもどこか西欧風の洗練を感じさせる彼らの演奏スタイルは、ショスタコーヴィチの音楽そのものである。ムラヴィーンスキイ自身に献呈された交響曲第8番作品65の1982年録音に、その真髄を聴くことができる。

同じく指揮者では、交響曲第4番作品43と第13番作品113の初演を担当したキリール・ペトローヴィチ・コンドラシン(1914−1981)も忘れるわけにはいくまい。モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団とのコンビによる演奏は幾分粗野なまでの荒々しさが特徴的だが、それがショスタコーヴィチの一面でもあることを思い出させてくれる。

器楽の分野では、ヴァイオリン奏者のダヴィード・フョードロヴィチ・オーイストラフ(1908−1974)が筆頭に挙げられよう。同じ時代を生き抜いたショスタコーヴィチとオーイストラフとの間に、我々には窺い知ることのできない共感があったことは間違いない。1948年のジダーノフ批判の故に初演が延期されたヴァイオリン協奏曲第1番作品77の1956年録音(伴奏はムラヴィーンスキイ指揮のレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団)は、そのことを雄弁にもの語っている。このような凄まじい音楽を目の当たりにすると、言葉の無力さを痛感する。

チェロ奏者ムスティスラーフ・レオポールドヴィチ・ロストロポーヴィチ(1927−)は、その善意を押し売りするような性格がショスタコーヴィチにも疎まれていたようだが、チェリストとしての能力(指揮者としてではない)に関しては全幅の信頼を寄せられていた。チェロという楽器の限界と同時に演奏者の精神の限界を試すような2曲のチェロ協奏曲は、確かにロストロポーヴィチの存在なくしては生まれなかっただろう。特に第2番作品126に関しては、未だにロストロポーヴィチの初演ライヴ(1966年)を凌駕する演奏がない。

室内楽曲の大部分を初演したベートーヴェン四重奏団(1923年創立)も特記すべき存在だろう。確かに現代の弦楽四重奏団と比べると、奏法や合奏の精度にいささか古臭さを感じさせなくもないが、その太く暖かい、それでいて強靭で透徹した音色はショスタコーヴィチが頭に描いていた響きそのものだった。とりわけ、初代ヴィオラ奏者ヴァディム・ヴァシーリエヴィチ・ボリソーフスキイ(1900−1972)の至芸は筆舌に尽くし難い。

声楽では、ガリーナ・パヴローヴナ・ヴィシネーフスカヤ(1926−)とエヴゲーニイ・エヴゲーニエヴィチ・ネステレーンコ(1938−)の二人の名を挙げなければならないだろう。社会主義に対する考え方は全く正反対だった二人だが、共にショスタコーヴィチの篤い信頼を得て晩年の傑作歌曲群を初演している。張り詰めた高音域の鋭い美しさと、豊かな低音域の深い響きは、彼ら以外の歌手からは聴くことができない。

【ピアソラと「彼の」演奏家達】

かつてタンゴの「革命児」「異端者」「破壊者」と呼ばれたピアソラは、没後クラシックの名演奏家ギドン・クレーメル(1947−)やヨーヨー・マ(1955−)らがこぞって取り上げたために、いまや二十世紀を代表する作曲家としてジャンルを問わず広く聴かれるようになった。タンゴをやりながらもクラシックに強い憧れを持っていたピアソラは、アルベルト・ヒナステーラ(1916−1983)やナディア・ブーランジェ(1897−1979)に師事したこともあり、好きな作曲家としてバルトーク、ストラヴィーンスキイ、ベルク、ラヴェル、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリャーンらの名前を挙げ、グレン・グールドの『ゴールドベルク変奏曲』を愛聴していたという。初来日した1982年頃には、武満徹や高橋悠治をはじめとする日本の現代音楽家達にも注目されており、クラシック・ファンにアピールする要素は十分にあると言える。

しかし、いくらピアソラ自身が伝統的な古典タンゴに背を向けるような態度を取っていたとしても、その根底に流れるタンゴへの深い愛情は否定しようがない。彼の音楽はタンゴ以外の何物でもないからこそ、逆に普遍性を獲得しえたのだ。そうしたピアソラの音楽を理解するためには、やはりタンゴのムグレ(「垢」という意味)を身につけた音楽家の手による演奏を聴く必要がある。「サッカーのナショナル・チームに匹敵する」と言われた程の豪華な顔ぶれを揃えたピアソラ・グループの演奏を聴かずして、ピアソラを語ってはならない。

完全に仕上がった状態でなければ作品を人に見せることはしなかったショスタコーヴィチとは違い、ピアソラは曲の原形だけを示して細部の仕上げは彼の信頼する共演者に任せた。ピアソラは1983年のインタビューで次のように語っている:「私の大きな長所というか、有能さは、それぞれの演奏者に合わした編曲を書けることなんだ。メンバーにテクニックがなければ、それなりの譜面を書くんだよ」。これはいわゆるクラシックとタンゴとの流儀の違いでもあるが、演奏家の魅力がピアソラ作品に決定的な影響を与えていることの証左とも言えるだろう。

ピアソラの美質が最も発揮された編成は、バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、エレキ・ギター、コントラバスから成る五重奏(キンテート)であった。キンテートのスタイルは、1962年にヴァイオリンのアントニオ・アグリ(1932−1998)が参加したことで確立された。それまでもピアソラのグループには、エルビーノ・バルダーロ(1905−1971)、エンリケ・マリオ・フランチーニ(1916−1978)、ウーゴ・バラリス(1914−)といったタンゴ・ヴァイオリンの最高峰が常に在籍していた。特にバルダーロはピアソラをタンゴに開眼させた人物でもあり、1950年代の弦楽オーケストラでの「天使のタンゴ」、1960年代キンテートでの「勝利」、「私の贖罪」等の名演は必聴である。だが「ピアソラのヴァイオリン」ということになると、アグリしかいない。それほどまでにアグリの音色と演奏スタイルは、ピアソラの音楽が求めているものと合致していた。アグリの至芸はあらゆる録音の中に聴き取ることができるが、ここではキンテート参加第一作のアルバム『われらの時代』に収録された「酔いどれたち」を挙げておく。この演奏に涙できない者に、音楽を聴く資格はない。

同じくヴァイオリニストでは、1980年代キンテートで活躍したフェルナンド・スアレス・パス(1941−)も大変な名手で、卓越した技術と濃厚な情念を感じさせる演奏スタイルは、ピアソラが晩年に到達した究極の音楽世界に大きく貢献している。

ピアソラはピアニストにも錚々たるメンバーを擁していたが、中でもピアソラ自身「自分のもった最高のピアニスト」と認めたハイメ・ゴーシス(1913−1975)が、圧倒的に素晴らしい。その深く重い響きはタンゴの真髄であると言って過言ではない。全ての演奏が素晴らしいが、弦楽オーケストラでの「天使のタンゴ」、「現実との三分間」、1960年代キンテートでの「勝利」、「私の贖罪」、「悪魔のタンゴ」、「十月の歌」、タンゴ・オペリータ『ブエノスアイレスのマリア』等でその凄絶なソロを堪能することができる。

録音はごくわずかしかないが、オスバルド・タランティーノ(1928−1991)の名も忘れ難い。彼のピアノは、タンゴそのものである。コンフント9での「オンダ・ヌエベ」は、タランティーノの実に格好良いスゥイング感と力強い響きが遺憾なく発揮された傑作である。

パブロ・シーグレル(1944−)の硬質でクリスタルなタッチを持った活きの良いピアノは、1980年代キンテートの方向性に大きく影響を及ぼした。ジャズ・ピアニストの経験を生かした彼の即興演奏は、「AA印の悲しみ」や「チン・チン」等で存分に味わうことができる。

エレキ・ギターはピアソラにとって不可欠な楽器ではあったが、その役割は常に脇役的なものだった。幾分鈍重な暗さを感じさせるオラシオ・マルビチーノ(1929−)、どこか飄々とした軽さが特徴的なオスカル・ロペス・ルイス(1938−)、抜群の技巧が冴え渡るカチョ・ティラオ(1941−)の三人は、いずれもピアソラ音楽の響きを陰ながら、しかし決定的に支えたという点で忘れてはならない。

タンゴの持つ独特のリズム感をピアソラは何よりも重視していたが、タンゴ史上最高のベーシストであるエンリケ・キチョ・ディアス(1918−1992)なくして理想のリズムを作り出すことは不可能だったに違いない。その名技は全ての演奏に刻み込まれているが、中でも60年代キンテートの「勝利」、タンゴ・オペリータ『ブエノスアイレスのマリア』、コンフント9の「スム」等で聴かせる猛烈なドライヴ感は凄まじい。もちろん、80年代以降の活動を支えたエクトル・コンソーレ(1939−)も、キチョの後継者にふさわしいセンスの良さを感じさせる。

【おわりに】

現在、ヴァイオリン奏者のギドン・クレーメルが本文で取り上げた二人の作品を積極的に取り上げている。正確無比な左手の技巧と、独特な右手の技術を駆使した彼の演奏が、現代のヴァイオリン奏者達に多大な影響を与え続けていることは改めて言うまでもないだろう。選曲や楽曲解釈における強烈な個性にも、目を見張るものがある。しかしながら、彼の奏でるショスタコーヴィチやピアソラを聴いて、筆者は心からの感動を覚えたことがない。

地理学者デビッド・ハーベイは、ポストモダンな環境では「文化の生産者は、ただ素材(断片と要素)だけを創造し、消費者がそれらの要素を自分の好きなように組み合わせるのにまかせるのだ。その効果は、意味を課し、たえざる物語を提供してくる著者の権力を、破壊(脱構築)することである」と述べている。これは、まさにクレーメルの演奏様式そのものではないだろうか。アメリカ式の消費主義、快楽主義に大きく影響されたジェネレーションX(1960年代後半から80年代に生まれた世代)にとって、権威や歴史の連続性などはさして大きな意味を持たず、常に自己の主観的な判断基準に基づいた行動のみが価値を持っている。ジェネレーションXを象徴するようなクレーメルの演奏には、ショスタコーヴィチもピアソラもいない。ただクレーメル個人がいるだけだ。いくらピアソラへの「純愛」を声高に主張しようとも、ストーカー的な愛情しか認めることはできない。本文で述べた「古きよき時代」の演奏には、最良の意味でのモダニズムがある。そして、ポストモダニズムが否定したものを、どんな言葉よりも明瞭に示しているように思われる。

演奏後のクレーメルの顔に浮かぶ、どこか呆けた虚ろな笑顔を見る時、筆者はいつもこんな想いに捕われるのだ。


【記】

上記の文章は、京都大学音楽研究会の50周年記念誌に寄せた文章に一部手を加えたものです。


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Last Modified 2006.05.18

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