名盤(管弦楽曲)

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タヒチ・トロット 作品16

V. ユーマンス作曲の「二人でお茶を」をショスタコーヴィチがオーケストレイションした作品。指揮者のニコラーイ・マリコー宅でのパーティーの席上、「今から聴かせる曲を1時間でオーケストレイションしてみろ。もしできたら自分の演奏会で取り上げる」という賭けに応じ、レコードを1回だけ聴いたショスタコーヴィチが45分で仕上げてしまった、という有名なエピソードが残されている。もともとスタンダードな名曲であることに加え、こうした面白い逸話があることも、この曲が比較的よく演奏される一因となっているのだろう。

なぜこの曲がソ連では「タヒチ・トロット」呼ばれているのかというと、当時大ヒットしていた「二人でお茶を」を、作曲家ファミーンが“自作”と偽って出版した「タヒチ・トロット」という楽譜がソ連国内で流通していたことに由来するようだ。ただし、この出版以前にも録音等で聴かれていた可能性もある。メイエルホーリド劇場で上演された「吼えろ、支那」(1926年初演)という劇中、数名のアメリカ人が船上でダンスをする場面で、この「タヒチ・トロット」が用いられた。

さて、「二人でお茶を」の初版譜は変イ長調、「タヒチ・トロット」の楽譜はト長調である(ただし、当時発売されていた「二人でお茶を」の録音で、変イ長調で演奏されているものは皆無のようだ)ことを踏まえて、ショスタコーヴィチのオーケストレイションが、変イ長調である事実に注目したい。また、マリコーの自伝『A Certain Art』(William Morrow & co.,inc.,New York,1966.)には、「タヒチ・トロット」のオーケストレイションについて言及されているにも関わらず、有名な「60分で編曲できるかという賭け」の話は一切出てこない。仮に『証言』が真にショスタコーヴィチの発言を書き留めたものだとしても、『証言』以外でショスタコーヴィチ自身がこの「賭け」について述懐した記録はない。さらに、オーケストレイションの準備と思われるショスタコーヴィチ自身のスケッチが、(断片的に)現存していること、マリコーが所有していた自筆譜のファクシミリを見ると、少なくない書き直しの跡が見られることなどを勘案するならば、「マリコーとの賭け」というのがショスタコーヴィチ“神話”の一つであると考えるのが妥当であろう。むしろ、相応の時間をかけて「二人でお茶を」のオーケストレイションを行なったのではないかと考えられる。もちろん、神話だからといって、この作品の価値が損なわれるわけではない。

それにしても、ショスタコーヴィチの編曲は実に優れたもの。楽器の重ね方が絶妙で、何とも洒落た美しい響きを引き出している。音色の選択が確実だったショスタコーヴィチの本領が発揮されている。

こういう軽い曲にあまりうるさいことをいっても仕方がないが、ショスタコーヴィチ自身がイメージしていた音色を持つロシアの団体の演奏が魅力的だ。スヴェトラーノフ/ソヴィエト国立SO(Melodiya)は、木管楽器の音程が少し気になる部分もあるが、オーケストレイションの意図をよく汲んだ、スコアをしっかりと読み込んだ演奏。しかし、この演奏の素晴らしい点は、この曲が何ともロシア的なイントネーションで演奏されていること。ショスタコーヴィチの乾いたオーケストレイションと、スヴェトラーノフの濃密な歌いまわしとのミスマッチ加減がなかなかイける。ロジデーストヴェンスキイ/レニングラードPO(Victor)も魅力的な音色を持っている。他に、N. ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナルO(Chandos)もきらびやかな響きを持った、なかなかの演奏。弦楽器がやや弱いが、管楽器の音色を生かしたバランスが効果的。トロンボーンの対旋律の強調などに個性を見せている。

金管合奏などによる編曲というのもいくつかあるが、もともとが編曲である作品の編曲というのは訳が分からない。

スヴェトラーノフ盤
(Victor VIC-2288, LP)
ロジデーストヴェンスキイ盤
(Victor VICC-40053/4)
N. ヤルヴィ盤
(Chandos CHAN 8587)

祝典序曲 作品96

ショスタコーヴィチの管弦楽曲中、最も有名なもの。コーダでバンダの入る編成のため実演で取り上げられることはあまりないが、録音は数多くある。初演は1954年11月6日、ボリショイ劇場においてアレクサーンドル・シャミーリエヴィチ・メーリク=パシャーエフ指揮のボリショイ劇場管弦楽団によって行なわれた。

一般にこの作品は1954年秋に10月革命37周年記念日のために、党中央委員会から委嘱を受けて作曲されたと言われる。また、1952年のヴォルガ=ドン運河開通に捧げられたという説もある。しかしながら、Музыка社刊の旧全集第11巻においては、1947年の10月革命30周年記念日のために作曲されたと記されている。このように、この作品の作曲動機および作曲年代については依然として謎が残されている。“37周年”というのはいかにも中途半端な気がするが、社会主義リアリズムの路線を忠実に踏襲しているようなこの作品が、ジダーノフ批判のあおりで7年間もお蔵入りするとも考えられない。冒頭のトランペットの動機は、長女ガリーナに捧げたピアノ曲集「子供のノート」作品69(1944年頃作曲)の第7曲「誕生日」の主題でもあり、この第7曲が当初出版された楽譜には収録されていなかったことなど、まさに謎が謎を呼ぶ状態だ。1954年は国民的作曲家グリーンカの生誕150周年にもあたり、グリーンカの誕生日を祝って作曲した…というのは、邪推のし過ぎか。

ちなみに、1947年説の根拠となっているのは、おそらくショスタコーヴィチ自身が発表した次の文章だと思われる:

この作品〔「祝祭序曲」〕では、戦争期の苦しい経験をへ、祖国の敵に打ちかち、いま自分の国の復興に努力している人間の気分を伝えたかった。そして新しい五ヵ年計画の建設の平和な労働の気分を音楽であらわしたかったのである。この序曲には、ドラマチックな葛藤といったものはない。そのテーマは旋律的なもので、その交響曲的手法はさまざまである。偉大な革命記念日に、胸おどらせながら、わたしは自分の新しい作品を手きびしいレニングラードの聴衆の判断にゆだねたい。(『夕刊レニングラード』1947年8月29日号:ショスタコーヴィチ自伝, p. 168)

1947年前後に、この記述にあるような作品が初演された記録はない。したがって、ここで言及されている作品がこの「祝典序曲」なのか、あるいは全く別の作品なのかは判断しかねる。もっとも、上記の内容が祝典序曲そのものを指しているようにも受け取れるのは確かだ。

出自に不明な点があるとはいえ、曲自体は極めて単純明快で、かついかにもショスタコーヴィチらしいもの。序奏付のソナタ形式によるこの作品は、誰もが口ずさめるような旋律に溢れ、ショスタコーヴィチの見事なオーケストレイション技法が冴え渡り、とにかくよく響く効果的な仕上がりになっている。バンダが加わるコーダなど半ばやけくそみたいだが、思いきった演奏で聴くとこれほど爽快な音楽はない。ハンスバーガーなどの編曲による吹奏楽版も人気がある。というより、日本ではむしろ吹奏楽で演奏される機会の方がはるかに多いだろう。

ショスタコーヴィチの管弦楽曲中最大の人気作だけに、録音点数は少なくない。個人的には、やはり、ロシアン・サウンド全開の豪快な演奏で楽しみたいところ。スヴェトラーノフ/ロシア国立SO他(Canyon)盤がこの曲に求めたい全ての点を理想的にクリアしている。同じ顔合わせによる旧盤に比べるとややテンポが遅く、全体に整然としたまとまりが感じられる。伸びやかな歌と壮麗な音響に満ちた演奏で、この曲の魅力を素直に表出している。録音も非常に優秀で、コーダの華麗な響きも十分に楽しむことができる。もちろん、スヴェトラーノフ/ソヴィエト国立SO(Melodiya, LP)の旧盤も素晴らしい。序奏部の重厚なテンポと、主部の超快速テンポとのバランスが良い。当然のように細かいアラがないわけではないが、理想的な各楽器の音色(特に弦楽器と金管楽器)と淀みのない音楽の勢いが卓越しているため、全く気にならない。コーダでバンダが加わる部分の録音はお世辞にも良いとはいえないが、演奏自体は素晴らしい高揚感を持った非常に優れたものである。旧盤と新盤、どちらを取るかは聴き手の好みの問題だろう。

これぞソ連の演奏という真髄を聴かせてくれるのは、ロジデーストヴェンスキイ/モスクワ放送SO(Revelation)盤。この曲には、こういう爆裂型の演奏がふさわしい。もちろん、アンサンブルも整っており、曲の造形もしっかりしている。それに加えて、どこか自制心を失ったような響きがあることで、魅力的な演奏に仕上がっている。ちなみに、このCDには録音年が1948年と表記されているが、間違いだろう。確かにそう言われてもおかしくない程、録音は悪いが。同系統の演奏としてはガーウク/モスクワ放送SO(Revelation)も挙げられるが、こちらはロジデーストヴェンスキイ盤に輪をかけて録音が悪い。同じロシアの演奏家によるものでも、プレトニョフ/ロシア・ナショナルO(DG)盤は、より洗練された出来。オーケストラの高い技量が楽しめる。これだけ早いテンポで一糸乱れぬアンサンブルを実現しているのは素晴らしい。根底に流れているのはロシアの響きだが、洗練された音色を持っているのがこの団体の特徴だろう。レガート主体の歌わせ方が個性的。序奏部練習番号3番の辺りでトランペットのピッチが悪いのが残念。N. ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナルSO(Chandos)盤も、テンポ、雰囲気、強烈な音色、いずれも素晴らしい。アンサンブルは結構雑なのだが、曲のもつ勢いを自然に生かすことで、優れた演奏となっている。

最も個性的な演奏として忘れてはならないのが、ムラヴィーンスキイ/レニングラードPO(Russian Disk)盤。演奏記録を見る限りでは、この曲をレニングラード・フィルとの実演で取り上げたのはたったの2回であり、そのうちの1回を収録した貴重な録音。ただし録音状態はかなり悪く、最後の拍手も後から合成したもののような感じを受ける。しかし演奏内容は、非常に早いテンポに貫かれた、いかにもムラヴィーンスキイらしい演奏である。非常に劇的な曲だけに、多くの演奏ではリズムや細部に雑なところが散見されることもあるが、さすがはムラヴィーンスキイ。出だしの3連譜の完璧な合い方など、よほど厳しい練習を積んだのではないかと想像される。弦楽器のメロディーをテヌート気味に歌わせているのが特徴的であるが、この極度に暴力的でなおかつ異様に緻密で整ったアンサンブル(練習番号18のピッチカートなど)には、第10交響曲の2楽章に通じる雰囲気すら感じられる。この曲でそうした深淵を覗かせてくれるのは、ムラヴィーンスキイをおいて他にはいない。

ロシア系のアクの強い演奏とは異なる、西側の演奏団体による耳に優しい演奏としては、ムーティ/フィラデルフィアO(EMI)盤が筆頭に挙げられよう。出だしの柔らかく美しいトランペットが印象的。全体を通してその印象が変わることはなく、ひたすら美しい響きとスマートな流れでまとめている。コーダでバンダが入っても決して絶叫することはない。こういう演奏も良い。カンゼル/シンシナティ・ポップスO(Telarc)盤も、オーケストラの技量を考え、決して無理しないテンポで丁寧に演奏した好演。全ての音がきちんと演奏されるだけで十分曲の魅力が引き出されることを再認識させられる。Telarcの優秀な録音がコーダでのスケール感に寄与している。やや人工的な音ではあるが、録音でこの曲を楽しむという観点に立てば、これは非常に立派な演奏だと評価できる。

端正な仕上がりという点においては、アンチェル/チェコPO(Supraphon)盤が素晴らしい。肩肘張らない、自然体でスマートにまとめた秀演。全ての旋律が無理なく伸びやかに歌われ、リズムの魅力が素直に表出されている。大見得を切るような部分は皆無だが、こうした端正なまとめ方でもこの曲の魅力を引き出すことができるという好例である。また、マッケラス/ロイヤルPO(Platinum)盤も、すみずみまで丁寧に仕上げられていて、模範的な美演となっている。ロシア風の荒々しさは全くないものの、こういう爽やかな響きも悪くない。

吹奏楽等編曲版の録音も少なからずあるが、原曲にこれだけ良い演奏がある以上、敢えて編曲版に手を出す意味はない。ここでは、特にコメントしない。

スヴェトラーノフ盤
(Canyon PCCL-00164)
スヴェトラーノフ盤
(Victor VIC-2288, LP)
ロジデーストヴェンスキイ盤
(Revelation RV10084)
ガーウク盤
(Revelation RV10061)
プレトニョフ盤
(DG 439 892-2)
N. ヤルヴィ盤
(Chandos CHAN 8587)

ムラヴィーンスキイ盤
(Russian Disk RDCD 10902)
ムーティ盤
(EMI CDC 7 54803 2)
カンゼル盤
(Telarc CD-80170)
アンチェル盤
(Supraphon COCO-75321)
マッケラス盤
(Platinum 2837)

ロシアとキルギスの民謡による序曲 作品115

1963年6月1〜10日、ショスタコーヴィチはキルギスのロシアへの自由加盟百年祭と同時に開催されたロシア・ソヴィエト音楽旬間へ出席するため、キルギス・ソビエト社会主義共和国を訪れた。ショスタコーヴィチがこうした公式行事に参加した背景には、1960年9月14日、作曲家同盟合同党組織全体会議によってソ連共産党員候補に推薦され、翌年9月にモスクワ作曲家組織の公開党会議で正式にソ連共産党員として承認されたことがある。1962年にはソ連邦最高会議代議員に選出されるなど、これ以降社会的な責務が増大していくことになる。

この曲は、キルギス共和国を訪問した際の印象を元に、“キルギスのロシアへの自由加盟”(1863年にロシア帝国がキルギス人の大部分が住む北キルギスタンを領有したことを指す)百周年を記念する作品として構想された。作曲は1963年初秋頃、レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)郊外のレーピノで行われた。Музыка社から1984年に刊行された作品全集の解説によると、初演は1963年10月10日にモスクワでソヴィエト国立交響楽団の演奏(指揮はK. イヴァーノフ)によって行われたとされているが、ショスタコーヴィチ自伝や石田一志氏によるハイティンク盤の解説には11月10日との記述があり(同氏によるショスタコーヴィチ (作曲家別名曲解説ライブラリー15)の解説では10月10日とされている)、初演の日付については混乱が生じている。

序奏付きのソナタ形式によるこの曲は、ロシアの民謡「Эх,бродяги вы,бродяги(おぉ、放浪の人よ)」(A. メドヴェージェフによって1959年に西シベリアのオムスク州で採譜された)と、キルギスの民謡「Тырылдан(ティリルダン:キルギスの神話的な人物の名前)」「Оп майда(オプ、マイダ:脱穀する人の歌)」(1956年刊のV. ヴィノグラドーフによるキルギス民謡集に所収)の、3つの旋律が元になっているといわれている。この作品は、選ばれた主題があまり展開の可能性を持たないこともあってか、確かにやや単調かつ雑然と音楽が進行していく感がある。したがってショスタコーヴィチの管弦楽作品中で特別重要な位置を占めるものとはいえないが、手堅い構成とオーケストレイションにショスタコーヴィチの熟練の技が見られる点で、「祝典序曲」作品96には十分に匹敵し得る作品だろう。

演奏は、M. ショスタコーヴィチ/モスクワ放送SO(Melodiya, LP)(コンドラーシン/モスクワPOと表記されているPraga盤CDと同一音源)が素晴らしい。細かな瑕(最も大きなものは、42小節でホルンの入りが遅れたために、45小節でフルートだけが2拍飛び出している)はいくつか見受けられるが、全体の刺激的な響き、勢いに満ちたリズム、適切なテンポが素晴らしく、雰囲気豊かな名演に仕上がっている。録音のために強奏部が歪むのが残念だが、他の演奏とはその質において比較にならない。各旋律の処理やリズムの扱い等には結構単調さも見えるが、曲の規模から考えると全体の流れの良さを評価すべきだろう。何より、典型的なロシアの響きであることが嬉しい。

M. ショスタコーヴィチ盤
(Praga PR 250 040)

交響詩「十月革命」作品131

1967年の十月革命50周年を記念した作品。1967年8月10日に完成し、1967年9月16日、モスクワ音楽院大ホールにて息子であるマクシーム・ショスタコーヴィチが指揮するソヴィエト国立交響楽団の演奏で初演された。

同時期の作品であるヴァイオリン協奏曲第2番作品129だけではなく、十月革命にちなんだ他の作品(交響曲第2番作品14や交響曲第12番作品112など)と比較しても知名度は低い。暗から明へと展開する曲調は典型的な社会主義リアリズムの作風で、三管編成のオーケストラを潤沢に使ったけばけばしい響きと相まって特に西側の聴衆に受けが悪いのかもしれない。しかしながら、ショスタコーヴィチの全作品に共通する“器用さ”はこの曲でも存分に発揮されており、緊密な構成とソツのない主題展開、見事なオーケストレイションは一聴の価値がある。

注目すべきは、1937年に作曲された映画音楽「ヴォロチャーエフカの日々」作品48から「パルチザンの歌」が引用されていることである(第2主題)。これについてショスタコーヴィチは次のように語っている。「ずいぶん前に私はソヴィエト国家の記念日に捧げる作品を書きたいと思ったことがあるが、それはうまくいかなかった。ところが何か月か前に私はモスフィルム映画製作所にいった。そこではワジリーエフ兄弟の古い映画『ヴォロチャーエフ堡の日々』の封切りの準備が進められていたが、その映画には昔私が音楽を付けたのだった。それを改めて見せられたが、<パルチザンの歌>はかなりうまく作ってあった。私はすっかり思い出したが、思いがけないことに映画がこれから先に作るべき交響詩をはっきりさせてくれたのである。私はその場で腰掛けて書きはじめた。主なテーマは書きなおしたが、革命歌の調子がみなぎっているものとなり、第2のテーマは<パルチザンの歌>となった。いずれも大きく改作し、12、3分かかる大きな交響的作品になった。」(『プラウダ』1967年9月12日号:ショスタコーヴィチ (作曲家別名曲解説ライブラリー15), pp. 135-6)

曲の構成は、序奏付きのソナタ形式である。モデラートで始まる序奏部の導入主題は、続くアレグロの主部で示される第1主題と密接につながっている。その後、上述した「パルチザンの歌」が第2主題として登場する。その後規則通りに展開部、再現部と続き、最後のコーダはハ長調に転じて壮麗に曲を締めくくる。確かに高貴とは言い難い、むしろ陳腐とすら言えさえする主題を何のヒネリもなく展開した曲ではあるが、丁寧にスコアを見てみると、意外なまでにしっかりとした作りになっており、“職人”ショスタコーヴィチの手腕を再認識させる佳作である。

交響曲全集のフィルアップという形でしか入手できないのが難点だが、コンドラーシン/モスクワPO(Melodiya)のライヴ盤が群を抜いて素晴らしい。スタイリッシュにさりげなく始まる冒頭から、どこかゴツゴツした感触の響きが印象的。コンドラーシンの手堅い音楽作りは、この作品にもショスタコーヴィチらしい職人的な構成美があったことを思い出させてくれる。闇から勝利へ向かうドラマトゥルギーの設計も万全で、凄まじいまでのコーダに必然性すら感じられる辺りは、コンドラーシンの本領発揮といったところ。コーダではアンサンブルが乱れまくり、小太鼓はバランスを逸してやみくもな打撃音を轟かせている(録音技術上の問題も大きいのだろうが)といった感じで、ライヴゆえの荒っぽさが気にならなくもないが、この作品の精神をこれほどまでに伝えてくれる演奏は、少なくとも今の時点ではないし、今後現れる可能性も高くはないだろう。響きの魅力という点ではドゥダーロヴァ/モスクワSO(Olympia)盤も悪くないのだが、リズムが若干不安定で、指揮がオーケストラを把握しきれていないように聴こえる。全体に細かいニュアンスにも不足している。むしろ、広上淳一/ノールショピングSO(FunHouse)盤のように、荒々しい力強さには欠けるが、過不足なくきれいに仕上げた演奏の方が良い。素朴な高揚感を持った自然な音楽の流れが素晴らしく、この曲の真価を適正に伝える演奏と言えよう。他に、N. ヤルヴィ/エーテボリSO(DG)もソツのない手堅い演奏でなかなか。

コンドラーシン盤
(Melodiya MEL CD 10 01065)
ドゥダーロヴァ盤
(Olympia OCD 201)
広上盤
(Fun House FHCE-2014)
N. ヤルヴィ盤
(DG F00G 20441)

ジャズ・オーケストラのための第1組曲 作品E

ソ連の“ジャズ委員会”に参加したショスタコーヴィチが、委員会の求める「ジャズ音楽の地位向上」のために催されたコンクールで演奏された作品。当時大変人気があったレオニード・ウチョーソフのオーケストラのスタイルが深く関わっているともいわれる。当時のジャズ音楽に対するショスタコーヴィチの考えは、次のようなものであった:「われわれは…あらゆる種類のジャズを実際手あたり次第に輸入しているが、わが国でつくったジャズと混ざりあったジャズ的音楽が、近い将来、ソヴェトの舞台をすっかり占領してしまう恐れがある。わたしはジャズそのものに反対ではない。けれども誰も彼もが、ほとんど盲目的にこのジャンルにおぼれるようないびつな状態には反対である。あらゆるカフェ、レストラン、ビヤホール、映画館、ミュージックホールから、夜を徹して流れでる俗悪な音楽には抗議せずにはいられない。ジャズという言葉に以前感じていた聖なる恐れは、真の「ジャズ―狂躁曲」に席をゆずってしまった。真のジャズ文化は今のところわが国ではものにならぬという悲喜劇的な結論にたどりつかざるをえない。これらの音楽はみな、概して下品でないまでも未熟である。信じやすい大衆のうちのある人びとは、それもまずい「料理」に無邪気に夢中になっている…。」(『ソヴェト芸術』1934年11月5日号)。

この文章を読むだけでも、この曲がソ連におけるジャズの“お手本”の一つとして計画されたことがわかる。しかしながら、「ワルツ」「ポルカ」「フォックストロット」の3曲から成るこの作品は、ジャズというよりはむしろ洗練された軽音楽の手法を感じさせ、その中にショスタコーヴィチの個性が強く刻み込まれた、傑作とはいえないまでも魅力的な小品に仕上がっている。

こういう曲は、楽譜を丁寧に弾くだけでは全く面白くない。単にきれいなだけではない、独特の音色を駆使して雰囲気を醸し出すことが重要である。この要求に対して完璧に応えているのは、ロジデーストヴェンスキイ/ソロイスツ・アンサンブル(BMG)。これは頽廃的なムードが全編に漂う名演。うらぶれた酒場で演奏されているかのようなチープな音色がたまらない。テンポもリズムも文句なし。

なお、「第2組曲」として広く知られている「ステージ・オーケストラのための組曲」作品G(i)は、映画音楽等から抜粋した全8曲から成る大編成管弦楽のための作品。こちらも楽しくきれいな小品が集められている。全曲を聴くならシャイー/ロイヤル・コンセルトヘボウO(Decca)、第6曲「ワルツ」単独ならM. ヤーンソンス/フィラデルフィアO(EMI)がお薦め。ちなみに「第2組曲」作品G(ii)は、1938年秋、当時結成されたばかりであった国立ジャズ・バンドのために要請された作曲されたものである。「スケルツォ」「子守歌」「セレナード」の三曲から成るこの作品は、同楽団の創設記念公開演奏会で初演された。ショスタコーヴィチのサッカー友達でもあったブラーンテルの代表作「カチューシャ」が初演されたのも同じ演奏会である。 この作品は長らく紛失したものと思われていたが、近年になって草稿(ピアノ・スコア)が発見され、イギリスの作曲家マクバニーによってオーケストレイションされた“本物の”「第2組曲」が、2000年9月9日のBBCプロムス・ラスト・ナイトで初演された。TV放映もされたこの演奏を聴く限り、(編曲者の責任も大であるのは当然だが)それほど魅力的な作品でもなく、人気という点においては、素性は明らかではないものの“偽の”「第2組曲」の方に軍配があがるだろう。

ロジデーストヴェンスキイ盤
(BMG-Melodiya 74321 59058 2)
シャイー盤
(Decca 433 702-2)
M. ヤーンソンス盤
(EMI 7243 5 55601 2 4)

バレエ「黄金時代」作品22

1929年、ソ連国立劇場の当局は現代生活に基づいたバレエ台本のコンクールを開催したが、その入賞作である映画監督A. イヴァノーフスキイの「ディナミアーダ」に手を入れて完成したのが、この曲である。ショスタコーヴィチはサッカーの熱烈なファンであった(公式審判員の資格を持っていたほど。ただし、運動神経は悪かったらしい)が、「黄金時代」はサッカーをテーマとした唯一の作品である。

大まかな筋は次の通り:西側の資本主義国である某国で開催されている工業博覧会『黄金時代』に、とあるスポーツ労働組織によってソ連のサッカーチームが招待される。彼らは労働者達に人気を博すが、ファシスト達は彼らに対して陰謀をめぐらす。ミュージック・ホールでの馬鹿げた踊りやスタジアムにおける各種競技の光景などを織り込みながら、黒人のボクサーや地区の共産党員をはじめとする労働者達とソ連サッカーチームとの友情を描く。そして最後は、ファシスト達の陰謀が西側の共産党員の手によって暴かれ、喜ばしい労働の踊りによって幕となる。

ちなみに、初演から半世紀以上経った1982年にモスクワのボリショイ劇場の舞台に登場した『黄金時代』は、同劇場の芸術監督兼主席バレエ・マスターであるグリゴローヴィチが、グリークマンと共同で作った新しい台本によるもので、ショスタコーヴィチの他の作品も多数用いており、いってみれば新作バレエである。“全曲版”と称されている録音や映像には、この“1982年版”も含まれるので、注意されたい。

全曲は、ロジデーストヴェンスキイ/ロイヤル・ストックホルムPO(Chandos)盤で聴くことができる。全曲通して聴くのはさすがに楽しいとは言えないが、資料的な価値は高い。ただし、演奏には粗い部分が散見されるのが残念。

バレエとして上演されることはまずないが、「序曲」「アダージョ」「ポルカ」「舞踏」の4曲からなる組曲作品22aは、現在でも比較的よく演奏会で取り上げられている。こちらには録音も結構な数がある。まず聴いて頂きたいのは、M. ショスタコーヴィチ/ボリショイ劇場O(Melodiya)盤。確かにアンサンブルは乱れているし、録音も非常に悪い。しかし、この演奏ほどショスタコーヴィチの精神を体現したものはない。第1曲の出だしからして、何と小気味の良い快速なテンポだろうか。幕が開く直前の不安と期待の入り乱れた気分が非常によく表現されている。そして、幕が開いた直後のワルツの素晴らしい後打ち。これぞロシアン・ワルツだ。この演奏で実現されているような、弦の強靭な響きとそれに対抗する強烈な金管の音色が、ショスタコーヴィチに不可欠なのである。第2曲のソプラノ・サックスも素晴らしい。最低音で音がひっくり返ろうが、大した問題ではない。ヴァイオリン・ソロも唯一納得のいく音がしている。クライマックスで第1トランペットが1小節ずれていようが、全く気にならない。何より満足できるのは、第3曲のシロフォンの音色。とても材質が木とは思えないようなこの音。これを聴いてしまうと、他の演奏には不満しか残らない。もはやヤケクソとしか思えない第4曲も含め、非常に素晴らしい演奏である。

この曲が劇場音楽であることを考えると、M. ショスタコーヴィチ盤のアクの強さにとどめをさすのだが、あまりに強烈すぎてついていけない向きにはアーヴィング/フィルハーモニアO(EMI)盤が薦められる。指揮のアーヴィングは往年の名バレエ指揮者だということだが、この演奏は何よりも絶妙なテンポによって特徴付けられる。僕自身の好みと比べるとやや上品に過ぎるが、この曲で格調の高さを感じさせてくれる演奏というのも他にはない。第2曲のソロも、録音がやや遠めだが、皆魅力に溢れている。ただ、第2曲でバリトンの代わりにユーフォニウムを使用し、最高音であるD音の周辺数小節(練習番号40以降)をトランペットに吹かせていることだけが残念である。他に、クルツ/フィルハーモニアO(Testament)盤もなかなか良い。各楽器のソロも絶妙で、録音の古さを差し引いても最高級の評価に値する。随所に不可思議な音の間違いがあるものの、特に第1曲に関しては文句無しにこの演奏が1番である。

この組曲では第3曲「ポルカ」が突出して有名だが、これだけを取り上げた録音もいくつかある。しかし、上記3種類の録音よりも魅力的なものはない。また、様々な編成用に編曲もされているが、作曲家本人によるピアノ用編曲と、弦楽四重奏用編曲(「弦楽四重奏のための二つの小品」作品D(i)に所収)がよく演奏される。前者にはD. ショスタコーヴィチ(Revelation)本人の演奏が残されている。これは、期待に違わず素晴らしい演奏。何と愉しい、心踊るような響きがしているのであろうか。ショスタコーヴィチにしてはめずらしくテンポを揺らしているが、曲の内容から考えて全く妥当であり、しかも滑稽な感じが絶妙に表出されている。録音が非常に悪いことが残念だが、一聴の価値はある。

ロジデーストヴェンスキイ盤
(Chandos CHAN 9251/2)
M. ショスタコーヴィチ盤
(Victor VICC-2090)
アーヴィング盤
(EMI CDM 7243 5 65922 2 3)
クルツ盤
(Testament SBT 1078)
D. ショスタコーヴィチ盤
(Revelation RV70008)

バレエ「ボルト」作品27

V. スミルノーフの台本によるバレエ作品。大まかな筋は次の通り:大酒飲みで自堕落な労働者レーニカ・グーリパが、同じような生活を送っている仲間達と共に工場を解雇される。復讐のために、新たな工業化社会に対する理想に燃える青年ゴーシャをそそのかし、工場の機械の中にねじ(ボルト)を入れて壊してしまおうとする。しかしながら、ゴーシャは労働者としての使命を思い出し、グーリパを工場長に密告して陰謀は失敗に終わる。

前作「黄金時代」作品22同様、踊りというよりはスポーツの要素をバレエに取り込もうとする意図が強く感じられる。本作品では、序曲後の第1曲目に「体操」という曲が置かれていることからも、それは明らかだろう。しかし、前作にもまして酷い台本のために、1931年4月8日レニングラード・キーロフ劇場での初演後すぐにレパートリーからはずされた。現在に至るまで再演されていない。

ショスタコーヴィチの音楽自体は、とりわけ見事な管弦楽法が発揮されていて、無視してしまうには惜しいものである。1933年1月17日にアレクサーンドル・ガーウク指揮レニングラード交響楽団によって初演された8曲からなる組曲作品27aは、現在でも度々取り上げられている。前作「黄金時代」の音楽に比べると、旋律そのものは美しい曲が多い一方で、曲としてのまとまりに欠ける側面もあり一長一短といったところか。「黄金時代」は組曲として一定の評価を受けているが、「ボルト」の方は単独の曲が「人形たちの踊り」作品S(i)やアトヴミャーン編の「バレエ組曲第1番」作品P(i)および「4つのワルツ」作品P(ii)に使われたり、各種楽器(アコーディオン、バラライカ、ドムラ、オルガン、吹奏楽)用に編曲されている事実も、この特徴を反映しているといえよう。ちなみに初演の翌年である1934年には、作曲者自身の手により組曲から第6曲と第7曲が削除され、各曲のタイトルもバレエの筋とは無関係なより一般的なものに改訂されている。

全曲は、ロジデーストヴェンスキイ/ロイヤル・ストックホルムPO(Chandos)盤で聴くことができる。さすがに全曲を通して聴くのは辛いが、気に入った曲だけ抜き出して聴く分には十分楽しめるだろう。何よりも資料として貴重で、後に引用される曲のオリジナルがあったりして興味深い。演奏自体もメリハリが効いて、雰囲気がよく出ている。第1幕最初の曲「体操」は、ロジデーストヴェンスキイ自らがピアノを弾き、かけ声をかけている。これは最高。ソヴィエト版ラジオ体操といった趣きがあり、微笑みを禁じ得ない。

組曲版としては、M. ショスタコーヴィチ/ボリショイ劇場O(Melodiya)盤が最高。作曲当時のショスタコーヴィチの“若さ”を思い出させてくれるような演奏。初期ショスタコーヴィチの才気走った刺激的な音響が、圧倒的な推進力の中で繰り広げられている。第4曲「タンゴ(コゼルコフの踊り)」のトランペットなどは、聴いていて我を忘れてしまうほどの魅力に満ちている。他に、N. ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナルO(Chandos)盤も良い。これは、華麗でありながら土臭い、雰囲気豊かな名演。オーケストラの技術自体はそれほど高い訳ではないのだが、優秀な録音と相まって豪華絢爛な音がしている。金管楽器や打楽器の強奏もツボを押えており、かゆいところに手が届いている。

ロジデーストヴェンスキイ盤
(Chandos CHAN 9343/4)
M. ショスタコーヴィチ盤
(BMG-Melodiya 74321 66981 2)
N. ヤルヴィ盤
(Chandos CHAN 8650)

バレエ「明るい小川」作品39

ショスタコーヴィチ3作目のバレエ音楽。歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」作品29と並んで「プラウダ批判」の槍玉にあげられたために作品の名前自体は非常によく知られているが、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の方は再評価が進んで取り上げられる機会が増えてきたのに対し、この「明るい小川」は依然として一定の評価を獲得するには至っていない。この作品は、当初「気まぐれ」「ふたりの優雅な女」「クバン」などのタイトルで構想されていた、F. ロプホーフとA. ピオトローフスキイの台本によるコルホーズでのソヴィエト生活をテーマにしたバレエである。

大まかな筋は次の通り:ソヴィエトの芸能人の一団がクバンに行き、その地のコルホーズ員達と出会う。コルホーズ員達は当初芸能人などというものを何か別世界の人のように思って、どう近づいてよいか分からない。芸能人の方も、彼らとすぐには共通の言葉を見つけられない。しかしながら、両者はたちまち打ち解けてしまった。なぜなら、コルホーズと芸能という違いこそあれ、共に社会主義社会を築こうとしているのにかわりはなかったからである。クバンの大自然の中での恋が、互いを一層近づける。

この音楽はショスタコーヴィチが自ら語ったように「楽しい、軽快な、気分の浮きたつようなもので、主として舞踏風のもの」である。実際、結構大衆受けした舞台だったらしく、評判は悪くなかったようだ。しかしながら1936年2月5日、プラウダ紙上に掲載された論文「バレエの偽善」では次のように酷評された:「……バレーはわれわれの芸術のもっとも保守的な形式のひとつであって、革命前の聴衆の好みに適したこれらの伝統と絶縁することは、他のどんな形式にもまして困難なことである。これらの伝統のもっとも古いものは、人生にたいする、人形のような非現実的な態度である。この種の傾向にうながされたバレーは、民衆を描かずに、人形を、人形の“感情”によって動く生物を描く。ソヴェト・バレーの根本的な困難は、ここでは人形が不可能だという事実である。それらのうそは明白であり、耐えがたいであろう。このことが、バレー作者、演出者および劇場全体に重大な責任を課すのである。……コルホーズの生活、まだ形成の過程にあるその新しい習慣は、演劇にであろうと歌劇あるいはバレーにであろうと、軽々しく、十分な知識なしに扱われてはならない、意義深い、そしてもっとも重要な主題である。……」

この論文自体は、先に発表された「音楽のかわりに荒唐無稽」とは異なり、ショスタコーヴィチの音楽を直接的に批判している訳ではないが、この論文以降、この作品は極めて低い評価しか与えられないことになる。「音楽は台本の諸欠陥をのり越えることができなかった。……彼の音楽は表面的な軽薄なものになっていた。アサーフィエフが適切に批評したように、『コルホーズの内容をあらわすのに苦心した彼は、よせ演芸の時点の一ページ、すなわち“三文音楽”を借りてきてその問題を解いた』のである。コサック踊りのゆたかな音楽をひきだすことに失敗した彼は、このバレーに必要な民族的色彩を失い、“コルホーズ”のバレーの総譜に、彼の“工業的な”バレー『ボルト』の抜すいが縫いあわされてしまった。これらすべては、バレーとしてのソヴェトのテーマに近ずく(原文ママ)には、非常な慎重さを必要とするという作曲者のことばと矛盾した結果をもたらした。バレーはコルホーズのほんとうの生活の暗示さえ含んでいない。より単純でより明快ではあるが、この音楽は初期の二つのバレーのグロテスクなものを思いおこさせた。」(井上頼豊:ショスタコーヴィッチ, 音楽之友社, p. 58, 1957.)こうした辛辣な批評に傷付いたのか、当初「三度目の試みでも不成功におわらぬとは保証できないが、そうなったとしても、わたしは四回目にもソヴェト・バレーの作品にとりくむ計画を捨てはしないだろう」と語っていたショスタコーヴィチは、この後二度とバレエ作品を手がけることはなかった(ショスタコーヴィチの作品を利用して、他人がバレエとして上演した例は結構ある)。

確かに、交響曲や弦楽四重奏曲に聴かれるショスタコーヴィチを期待していると肩透かしを食うほど、この作品は“大衆的”な楽曲ばかりから構成されている。前二作「黄金時代」と「ボルト」では初期作品に典型的な耳障りな響きが満ちていたが、この作品ではチェロ・ソナタ作品40にも通じる親しみやすさが前面に出ている。これはこれで、決して悪くない。作曲者自身が1945年に編集した組曲39aは5曲から構成されており、その全てが(オーケストレイションに変更はあるが)L. アトヴミャーンによってまとめられた「バレエ組曲」に収録されており(1:第1番第1曲、2:第1番第4曲、3:第3番第6曲、4:第2番第2曲、5:第1番第2曲、)、この曲が現在ではショスタコーヴィチの(といってしまって良いのかどうかは分からないが…)人気作品であることが、それを証明している。また、「ボルト」などからの引用もある代わりに「人形たちの踊り」作品S(i)など他作品にも引用されていることも、ショスタコーヴィチ自身が(全体としてはともかく)個々の楽曲を失敗作だと思っていなかったことの証しでもあろう。

上述したような経緯から、この作品は“幻の作品”として長らくオリジナルの形で耳にすることはできなかった。その乾きを癒してくれたのが、ロジデーストヴェンスキイ/ロイヤル・ストックホルムPO(Chandos)盤である。これは全曲ではなく、同じ曲が繰り返される部分とバレエ「ボルト」作品27から引用された楽曲は省略されている。演奏はコクのある音色を前面に出し、ロジデーストヴェンスキイ独特のリズム感を持ったもので、なかなか楽しい。「黄金時代」や「ボルト」とは異なって聴きやすい曲が多いので、全部を聴き通すことも決して辛くはない。一方、単独の楽曲としては、第29曲のアダージョがチェロ独奏曲として取り上げられる機会が多い。原曲の形ではなかなか満足できる演奏がないが、コントラバスとピアノ用の編曲であるラドウカノフ(Cb)、リンドグレン(Pf)(Bluebell)が意外な掘り出し物。楽器の制約を感じさせない堅実な技量と、幅広く豊かな歌を持った音楽性が大変素晴らしい。

なお、本作品から数多く収録されているL. アトヴミャーン編集のバレエ組曲第1〜3番作品P(i)では、M. ショスタコーヴィチ/ボリショイ劇場O(Melodiya)盤が最高。こ強烈な色彩感に溢れ、力づくの歌に満ちていながらどこか貧乏臭い響きが理想的。尋常ならざる推進力に満ちており、何でこんな軽い曲に命の限りを捧げているのだろう?と不思議になる。この凄絶とも形容できる響きの魅力には、抗うことなどできる訳がない。全編に渡って、トランペットの凄まじさが耳につくが、この濃密な響きがあってこそ、ショスタコーヴィチの小品は活きてくるというものだ。さらに、早目のテンポも素晴らしい。凝った表情をつけるためにテンポが落されることなどは、あってはならないことだ。古き良き“ソヴィエト”を堪能できる演奏。N. ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナルO(Chandos)盤もなかなか。荒っぽいまでの勢いと、高らかに歌い上げる抒情性とのバランスが理想的で、楽しそうに演奏している雰囲気がよく伝わってくる。屈託のない清らかな旋律が泉のように湧き出てくるような演奏。全体にリズム感も良く、素晴らしい出来。

ロジデーストヴェンスキイ盤
(Chandos CHAN 9423)
ラドウカノフ盤
(Bluebell ABCD 018)
M. ショスタコーヴィチ盤
(BMG-Melodiya 74321 66981 2)
N. ヤルヴィ盤
(Chandos CHAN 8730)

映画音楽「馬あぶ」作品97

E. L. ヴォイニッチ原作、A. ファインツィンメル監督によるレン・フィルム作品。イギリスの女流作家エセル・リリアン・ヴォイニッチは、著名な数学者ジョージ・ブールの5番目の娘で、おじのジョージ・エヴェレストも有名な地理学者。チョモランマが“エヴェレスト”と呼ばれるのは、彼にちなんでのこと。革命運動にも深く関わっていたといわれる彼女の処女作「馬あぶ」は、1897年にアメリカで出版され、ついでイギリスで人気を博したものの、その後すっかり忘れ去られてしまった。しかし、その舞台設定ゆえか、1898年に翻訳が出たロシアでは長く愛読され続け、1959年5月11日にはソ連でヴォイニッチ95歳の誕生日を祝う会が盛大に催されたという。

19世紀はじめ、オーストリアに占領されていたイタリアが舞台。裕福なイギリス人のバートン家に生れ育ったアーサーは、プロテスタントの一家に迎えられたカトリック教徒の後妻グラディスの一人息子ということもあり、特に母の死後は決して幸福とは言えない青春時代を送っていた。ピサの神学校に通う彼の心の支えは、モンタネッリ神父だけであった。アーサーとモンタネッリとの関係は、単なる師弟関係を越え、相思相愛と言ってよいほどの深い心のつながりを持っていた。貧困にあえぐイタリアの社会情勢は、アーサーを学生運動へと巻き込んでいく。「若きイタリア」党に参加し、地下活動を始めたアーサーは、イギリス時代の幼なじみでウォーレン医師の娘ジェニファー(彼はジムと呼んでいた)と出会う。皆がジェンマと呼ぶこの女性に、アーサは恋をする。そんな折、モンタネッリが司教になるために、ローマへと旅立つことになる。これが悲劇の始まりであった。ジェンマを巡ってボッラという同志に嫉妬心を燃やしたアーサーは、モンタネッリの後任カルジ神父にそれを懺悔する。しかし、カルジ神父は警察のスパイであった。アーサーをはじめ、「若きイタリア」党の主要なメンバーは逮捕される。アーサーは取り調べでも決して口を割らなかったが、釈放される時、彼の高潔な人柄に感心した看守エンリコから、カルジ神父がスパイで、アーサーが警察の罠に嵌められたことを知らされる。呆然自失となったアーサーは、出迎えに来たジェンマの前で自らが組織の秘密をもらしたと告白する。誤解したジェンマはアーサーに頬打ちをくらわせ、彼の前から立ち去る。帰宅したアーサーは、家族から冷たい出迎えを受け、兄嫁のジュリアから自分がモンタネッリの私生児だということを告げられる。信じていたもの、愛していたもの全てに裏切られたアーサーは、貨物船に乗って南米へと去る。

それから、13年の月日が過ぎた。アーサーは、水死したということになっていた。釈放の日の2日後、アーサーが無実だったことを看守エンリコから知らされたジェンマは、深い後悔の念にかられたまま、相変わらず革命活動を続けていた。ジェンマはボッラと結婚して子供も生んだのだが、今や、そのどちらも死んでいた。彼女の参加する運動に、フェリーチェ・リヴァレスという南米出身の活動家が迎えられた。折しも、モンタネッリが枢機卿としてその地に赴任してきたところであった。「馬あぶ」と呼ばれる彼は、その鋭い諷刺と大胆かつ個性的な振舞いで、数々の政治運動をリードしてきた人物である。しかし、ジェンマは彼を受け入れることができない。初めは賛否両論の中に迎えられた馬あぶは、次第に活動の中心人物となっていく。その中で、ジェンマも彼を徐々に理解していく。馬あぶもジェンマにだけは心を開き、そして、彼が南米でどのように生きてきたか、自分の過去をジェンマにだけ語る。ジェンマは、馬あぶがアーサーだということに気づき、自分の頬打ちが彼をどれほどの地獄に突き落としたかを知り、苦悩する。だが、馬あぶはあくまでもリヴァレスであり続け、自分がアーサーであることを明かそうとはしない。

馬あぶとジェンマは、さらなる武装蜂起に向けて銃器密輸の計画を練る。お互いに、これが二人の最後だという思いにとらわれる中、ジェンマは馬あぶに正体を明かしてくれるよう懇願する。しかし、彼らにはその話をする時間が残されていなかった。馬あぶは、計画が成功した暁に全てを話すというメモをジェンマに渡し、出発する。残念ながら計画は失敗し、馬あぶはオーストリア軍に捕えられる。ジェンマは必死になって馬あぶの救出を試みるが、南米で痛め付けられた馬あぶの体はあと一歩のところで力尽きてしまい、脱走にも失敗する。馬あぶは、牢獄の中でモンタネッリ枢機卿と話をする。彼は自分がアーサーであることを告げ、モンタネッリに自分と神のどちらをとるのか、選択を迫る。激しい葛藤の末、モンタネッリは馬あぶの処刑を決めた。銃殺刑に処された馬あぶは、最後まで英雄的な態度を崩さなかった。彼の最期をみとったモンタネッリは、その深い後悔の念ゆえに発狂する。

馬あぶの死を知ったジェンマの元に、処刑前夜に書かれた馬あぶからの手紙が届く。そこには「愛するジム」という文字があった。馬あぶは自分がアーサーであることを述べ、彼がかつてジェンマを愛していたこと、そして、今も愛していることを率直に書き記していた。癒されることのない喪失感の中で、彼女はモンタネッリ枢機卿の死を告げる大聖堂の鐘の音を聴く。

少女趣味と笑われるかもしれないが、筆者はこういう話が大好きだ。かつて渡辺裕之と高木美保が主演したTVドラマ「華の嵐」みたいな、ありふれた筋立ての純愛路線。しかも、全編にみずみずしい若さ溢れる情熱が満ちている。芸術という観点からすると、これは確かに一流の作品ではないのかもしれない(筆者には文学的な素養が欠けているので、判断はできないが)。だが、この作品は人を惹きつける力がある。どうして忘れ去られてしまったのか、わからない。1981年には講談社文庫から日本語訳が出版されているが、既に絶版。可能であれば、是非一読していただきたい。

映画音楽自体は全24曲から構成されているが、一般に演奏される組曲作品97aは、L. アトヴミャーンの編集によるもので、全12曲からなる。作曲は1955年春に行われ、映画の公開は1955年4月12日。原曲では第3曲、組曲では第8曲にあたる「ロマンス」が公開当初から評判だったらしい。映画自体については「ベルリン陥落」や初期の「新バビロン」、「女ひとり」などとは異なって、各種の文献には全くといってよいほどコメントはない。

組曲全体を通して旋律の美しい曲が多く、ショスタコーヴィチの全作品中でも異彩を放っている。おそらく、芸術家ショスタコーヴィチの映画音楽ということであれば、「ハムレット」のような重厚な作品がその代表作となるのだろう。しかし、ショスタコーヴィチも人の子。この作品を読んで(見て)、筆者と同じく(というのはおこがましいが…)青臭い感傷的な気分になったのだろう。非常に切なく、そして素直に心に沁みる音楽である。こうしたことから、西側の演奏団体による演奏機会も多く、ショスタコーヴィチの数ある映画音楽の中でも突出した人気作となっている。

組曲作品97a全曲を収録した録音の中では、E. ハチャトゥリャーン/ソヴィエト映画省SO(Classic for Pleasure)がダントツで素晴らしい。快速のテンポ設定といい、華やかで豊かなロシアの響きといい、どれを取っても最高の名演。この曲のあるべき姿を理想的に聴かせてくれる。抒情的な部分での哀愁を漂わせながらも骨太な音楽は、非常に魅力的である。他にも録音は少なくないが、どれもこの演奏の魅力の一部しか持ち合わせていない。この演奏に肉薄するのがシナイスキー/BBCフィルハーモニック(Chandos)盤である。華麗かつ重厚な響きと、奇を衒うことのない丁寧な音楽作りは、文字通り理想的な演奏の名に値する。録音も優れている。

組曲第8曲「ロマンス」は、ヴァイオリン・ソロで奏でられる旋律の美しさ故非常に人気があり、この曲だけ演奏されることも多い。中でも、フェドセーエフ/モスクワ放送SO(Relief)は非常な美演かつ名演。ゆったりとしたテンポで濃厚な抒情を歌い上げていくところに、フェドセーエフの真骨頂がある。全く手抜きをせずに最初から最後まで充実した響きが聴かれ、聴いた後の満足感は筆舌に尽くしがたい。ロシアの音楽以外の何ものでもないのだが、極めて洗練された音楽になっているところが特徴的。スヴェトラーノフ/ソヴィエト国立SO(Melodiya, LP)の演奏も、ロシア情緒たっぷりの素晴らしい演奏。ヴァイオリン・ソロも美しいが、特に主部に戻ってからの弦楽合奏がたまらないほど美しい。このコンビならではの豪快な美しさが堪能できる名演。本家本元の貫禄に満ちたスヴェトラーノフ盤に対し、西側の洗練された美しさを漂わせているのがマリナー/アカデミー室内合奏団(EMI)盤。これは非常に端正な美しい演奏。ショスタコーヴィチが書いたこの種の音楽の解釈としては、模範的なものである。作為的な部分はなく、マリナーの巧さが光る好演。

「ロマンス」は、各種楽器用の編曲も数多くある。まずボリショイ劇場ヴァイオリン・アンサンブル(DG)の演奏を聴いてみたい。これはピアノとヴァイオリン合奏による演奏。ロシア流儀の太く厚い音色が、素晴らしい雰囲気を醸し出している。自然なフレージングも好ましい。シュトール(Cb)、雄倉(Pf)(Camerata)は、コントラバスという制約を感じさせない、豊かな演奏。軽々と楽器を操る様には大変感心させられる。クレーメル(Vn)、マイセンベルク(Pf)(Teldec)の演奏は、相変わらず多彩な音色を駆使して、憎らしいまでの表現力を見せ付けている。ロシア的な情緒とか気品とかいうことではなく、ひたすらヴァイオリンの美しさを堪能させてくれる。これよりはリトル(Vn)、レーン(Pf)(Classic for Pleasure)の太く暗めの音色で、しっとりと歌い上げた佳演の方がよりショスタコーヴィチらしさを堪能することができる。ただ、美しい仕上がりなのだが、粘着質の歌い回しがいやらしく聴こえなくもないので、好みは分かれるかもしれない。ロシコーフ(バラライカ)、ミニャーエフ(Gt)(RCD)という面白い編曲もある。これは、“バラライカのパガニーニ”と呼ばれる名手とギターとのデュオ。ギターの方に若干安っぽい響きも散見されるが、撥弦楽器の美しい音色が心に残る。ただし、演奏自体はごく平凡なもの。

「ロマンス」以外では、J. ウィリアムズ & ケイン(Gt)(Sony)による組曲第7曲の「イントロダクション」をギター2台のために編曲したものも聴き逃せない。。大変美しい音色で、心に沁みる音楽を奏でている。あっという間に終わってしまうのが非常に残念。

アトヴミャーン編の組曲版ではなく、ショスタコーヴィチの原曲から直接13曲を抜粋した録音に、シャイー/フィラデルフィアO(Decca)盤がある。資料的な興味は惹かれるものの、オーケストラの華やかな音色を駆使してリラックスした雰囲気で演奏されているが、単に楽譜をなぞった以上のものではない。響きも歌い回しも楽しむには十分過ぎるほどの出来だが、どこか空虚な印象が残る。

E. ハチャトゥリャーン盤
(EMI CD-CFP 4463)
シナイスキイ盤
(Chandos CHAN 10183)
フェドセーエフ盤
(Relief CR 991047)
スヴェトラーノフ盤
(Victor VIC-2288, LP)
マリナー盤
(EMI TOCE-9912)
ボリショイ劇場
ヴァイオリン・アンサンブル盤

(DG 423 776-2)
シュトール盤
(camerata 20CM-61)
クレーメル盤
(Teldec WPCS-6177)
リトル盤
(EMI CDM 7 64507 2)
ロシコーフ盤
(RCD RCD 16202)
J. ウィリアムズ盤
(Sony SRCR1676)
シャイー盤
(London POCL-1688)

その他の映画音楽

ショスタコーヴィチは、その生涯に渡って映画音楽を作曲した。父親の急死後、家計を助けるために「ピカデリー」という映画館で無声映画のピアノ伴奏のアルバイトをした時から、ショスタコーヴィチと映画との関わりは始まった。もっとも、このアルバイトは彼にとって心身共に負担が大きく、長続きはしなかったようだ。映画に合わせてピアノ三重奏曲第1番作品8の練習をしたというエピソードもある。

ショスタコーヴィチ最初の映画音楽は、「新バビロン」作品18(監督:コージンツェフ&トラウベルグ)で、無声映画であった。これは、パリ・コミューン期におけるパリの百貨店「新バビロン」の女性店員と、抵抗戦線で知り合った兵士の恋人との話である。ショスタコーヴィチの複雑なスコアは映画館の楽士には難しすぎて、レニングラードでの公開時は演奏を拒否されたらしく、モスクワで初演された。ジュード/ベルリン放送SO(Capriccio)が全曲を録音しているが、ソツのない演奏ながら、やはり映像なしで全曲聴き通すのは楽しくない。後年、ロジデーストヴェンスキイが自筆譜等を元に7曲から成る演奏会用組曲を編集しており、こちらは才気に満ちた初期ショスタコーヴィチの作風を楽しむことができる。ポリャンスキイ/ロシア国立SO(Chandos)盤は、単独の音楽作品としては必ずしも一級品とはいえないこの曲を、異様なまでに磨き上げた演奏。アンサンブルの精度、響きの美しさ、いずれをとっても理想的なもの。初期ショスタコーヴィチの神経に障る響きも十全に再現されており、全く不満はない。これ以上を望む必要はないだろう。

第2作となった「女ひとり」作品26(監督:コージンツェフ&トラウベルグ)は、ソ連最初期のトーキー映画とされるが、実際には台詞のほとんどは字幕で、音声トラックには音楽のみが収録されている。シベリヤの未開地へ教師として派遣される女性を描いたこの映画に作曲した音楽も、基本的には前作「新バビロン」と似た傾向のものだが、登場人物に対する風刺的な性格描写のパターンが同時期のバレエや歌劇などの作品群と共通しているところが、ショスタコーヴィチ独自の音楽語法という観点から興味深い。1分強の1曲(「吹雪の情景」)だけではあるが、テルミンが使われていることも注目に値する。映画の音声トラック全て(自筆譜が紛失している楽曲も含む)を指揮者自らが復元したフィッツ=ジェラルド/フランクフルト放送SO(Naxos)盤が、DSCH社刊の新全集第123巻に採用されたスコアを使用していることと、オーケストラのメタリックな質感を持つ澄んだ響きと手堅く丁寧な演奏が他の録音を大きく上回る水準で、現時点での決定盤と言える。他の盤は全て、Музыка刊の作品選集に準拠している。この版にはユロフスキー/ベルリン放送SO(Capriccio)ムニャツァカノフ/ベラルーシ放送SO(Russian Disc)という2種類の全曲盤があるが、それよりも抜粋版のシャイー/ロイヤル・コンセルトヘボウO(Decca)盤の方がずっと面白い。もっとも、ショスタコーヴィチの初期作品がこんなに贅沢な響きで奏でられると、何となく違和感があるが。

革命史のあるエピソードを扱った第3作目の「黄金の丘」作品30(監督:ユトケーヴィチ)は、ソ連最初の本格的トーキー映画であった。この曲にはショスタコーヴィチ自身による組曲作品30aがある。パイプオルガンも使った意欲的な作品だが、ここで非常に魅力的なのは第2曲目のワルツ。ロジデーストヴェンスキイ/ソヴィエト国立文化省SO(Russian Disc)の演奏が超名演。ハワイアンギターの切ない音色と、ロシアン・ワルツの哀愁漂うリズム感が胸をかきむしる。カリーニン/オシポフ・バラライカO(Claves)盤も、バラライカ・アンサンブルとはいうものの、打楽器や管楽器も入った民族楽器アンサンブルで、極めて原曲に忠実な編曲となっている。冒頭のメロディーはオリジナルでもハアイアン・ギターが使われているので違和感がない。バラライカの切ない音色が曲調によくマッチしている。美しい仕上がり。

第4作「呼応計画」作品33(監督:エールムレル&ユトケーヴィチ)は典型的な国策映画だが、この主題歌「呼応計画の歌」が大ヒットした。全ソ・ラジオ・歌のアンサンブル(Melodiya, 10" mono)盤が雰囲気満点の演奏。オリジナルのオーケストラ伴奏ではないが、ミーニン/国立モスクワ合唱団(Sacrambow)によるピアノ伴奏版(作曲者自身の編曲)はより洗練された音楽的な仕上がり。3曲からなる組曲(?)の録音もあるが、中ではシャイー/ロイヤル・コンセルトヘボウO(Decca)が非常に美しい。特に2曲目のヴァイオリン・ソロは良い感じ。ロシアの音色ではないが、落ち着いたサウンドで良質の演奏。

結局公開されることはなかったが(市場の場面だけ後に公開された)、プーシキンの物語詩を原作とするアニメ映画「司祭とその下男バルダの物語」作品36(監督:ツェハノフスキイ)の音楽もユーモラスで楽しい。ロジデーストヴェンスキイ/ソヴィエト国立SO(Victor)に漂う独特のチープな雰囲気を満喫したい。

「愛と憎しみ」作品38(監督:ゲンデリシテイン)、「ヴォロチャーエフカの日々」作品48(監督:ヴァシーリエフ)の2作は、残念ながらスコアが紛失しているようで、録音も全く残されていない。一方、「マクシームの青年時代」作品41(i)「マクシームの帰還」作品45「ヴィボルグ地区」作品50(監督:コージンツェフ&トラウベルグ)の“マクシーム三部作”はヒットし、社会主義リアリズム映画の代表作とされた。後にアトヴミャーンが組曲「マクシーム三部作」作品50aとしてその一部を編集しており、ユロフスキー/ベルリン放送SO(Capriccio)ムニャツァカノフ/ベラルーシ放送SO(Russian Disc)という2種類の録音で聴くことができるが、これはどちらも良い演奏。「女友達」作品41(ii)(監督:アルンシターム)は、ロジデーストヴェンスキイが発見した3つの前奏曲が、1985年9月25日にボロディーン四重奏団他の演奏によって蘇演された。ポーストニコヴァ(Pf)他(Melodiya)のLPで聴くことができる。

「友人たち」作品51(監督:アルンシターム)も全く録音が残されていないが、ショスタコーヴィチ自身が「この仕事で、わたしははじめて民謡と突きあたることになった。この仕事は、自分にとってかくべつおもしろ2いというべきだろう。わたしは、チェチェン人、イングーシ人、カバルダ=バルカル人の歌や音楽を注意ぶかく研究している。そしてそれらを基礎として、この映画音楽を作ろうとしている」というコメントを残しているので、耳にすることができないのが大変残念である。

交響曲第5番作品47の成功後も、ショスタコーヴィチは精力的に映画音楽を書き続けた。「銃をとる人」作品53(監督:ユトケーヴィチ)は、マクシーム・シュトラウフがレーニンに扮して話題を呼んだレーニン映画。ムニャツァカノフ/ベラルーシ放送SO(Russian Disc)の録音がある。革命の闘士を主人公にした「偉大なる市民・第1部」作品52、「偉大なる市民・第2部」作品55(監督:エルムレル)では、交響曲第11番でも使われた革命歌「同志は倒れぬ」を主題とした曲の録音がある。シャイー/ロイヤル・コンセルトヘボウO(Decca)の美しい演奏も、ムニャツァカノフ/ベラルーシ放送SO(Russian Disc)のアクの強い音色をもった演奏も、どちらでも楽しめる。オーケストレイションの違いを聴くだけでも興味深い。

マルシャーク原作のアニメ映画「愚かな小ねずみ」作品56(監督:ツェハノフスキイ)には、ムニャツァカノフ/ベラルーシ放送SO(Citadel)によるナレーションが入りの録音がある。時にはドラえもんのような声色まで使っての熱演が楽しい。音楽だけを取り出すと弱い部分も見られるが、ナレーションが加わることで、たとえ何をしゃべっているのか分からなくても雰囲気が増している。ファンには一聴を薦めたい。無声映画の喜劇を思わせる「コルジーンキナの出来事」作品59(監督:ミンツ)の音楽は、ロジデーストヴェンスキイ/ソヴィエト国立文化省SO(BMG)の生き生きとした演奏で耳にすることができる。フィナーレの合唱はなかなか良い。

大祖国戦争が勃発してからは、映画音楽の仕事もかなり減ることになる。戦中に作られたものは、革命の闘士を主人公にした「ゾーヤ」作品64(監督:アルンシターム)1作のみ。これには、M. ショスタコーヴィチ/ボリショイ劇場O(BMG)の凄い演奏がある。この異様なブチ切れ方。これぞ“ソ連のショスタコーヴィチ・サウンド”だ。嫌うならば嫌え。冒頭の、まるで50℃の湯船に浸った後でサウナに30分入っているかのような響きに耐えられないのであれば、この演奏を聴く必要はない。それにしても一体どうしたというのだろう、このテンションは?金管楽器も、これだけ好き放題やらせてもらえれば、演奏中に脳溢血で死んでも本望ではないだろうか?

戦後最初の作品「普通の人々」作品71(監督:コージンツェフ&トラウベルグ)は、ジダーノフによる一連の文化芸術弾圧の中で名前をあげて「理念上の誤ち」を批判されたために、公開が1956年に延期されている。録音はない。続く「ピロゴーフ」作品76(監督:コージンツェフ)は、医師であった偉人の伝記映画。アトヴミャーンによる組曲76aの第3曲「ワルツ」が、何とも美しい傑作。ショスタコーヴィチの音楽に求めたい響きそのものとすらいえるM. ショスタコーヴィチ/ボリショイ劇場O(BMG)の強烈な歌い上げや、フェドセーエフ/モスクワ放送SO(Musica)の美しさに満ちた演奏を、万難を排してでも聴きたい。

対独戦争映画「若き親衛隊」作品75(監督:ゲラーシモフ)の公開前に、悪名高きジダーノフ批判が始まった。この後、ショスタコーヴィチが関わる映画は、愛国的、国策的な内容を持ったものがほとんどとなる。当時、まだ幼い子供を抱えていたショスタコーヴィチは、たとえ本意ではないにせよ、生活費を稼ぐ必要があったのだ。少年時代の父の死後と同じく、ショスタコーヴィチはまたしても映画音楽で食いつないでいくことになる。ガンブルグ/ソヴィエト映画O(Olympia)による演奏が、この時期の映画音楽が持つ特徴と魅力を十分に発揮している。農学者ミチューリンの伝記映画「ミチューリン」作品78(監督:ドヴジェンコ)にはM. ショスタコーヴィチ/ソヴィエトSO(BMG)による模範的な演奏がある。「エルベ河での出会い」作品80(監督:アレクサーンドロフ)も戦時中のエピソードを扱った映画。主題歌は大ヒットし、日本でもショスタコーヴィチを紹介する際に「エルベ河」の作者とされることが少なくなかったようだ。これは組曲作品80a中第2曲で、芥川/中央合唱団&新星日本O(ONGAKU CENTER)による日本語歌詞による演奏がある。“ソビエト”を“ソヴェト”と発音している辺り、とてつもない胡散臭さを感じないでもないが、歌唱自体はしっかりしたもの。伴奏編曲も郷愁を漂わせていて、なかなか良い。また組曲第8曲「平和の歌」も有名。ロブソン(B)、エロフシン(Pf)(Melodiya, 10" mono)の名唱で聴きたい。録音は劣悪だが、ゆったりとしたテンポ、朗々とした深い声、いずれも大変素晴らしい。この二曲をまとめて聴くことができるのはB. アレクサーンドロフ/赤軍合唱団(Melodiya, 10" mono)盤。いわゆるロシアの男声合唱の魅力が、劣悪な録音を超えて伝わってくる。

そして、この時期を代表する作品が「ベルリン陥落」作品82(監督:チアウレーリ)である。愛国的な労働者が戦争に巻き込まれ、英雄的に戦った結果偉大なる勝利を収めるという典型的な戦勝映画だが、何といってもスターリンやヒトラーのそっくりさんが登場してくるのが可笑しい。しかも、見終わった後にはスターリンの偉大さしか印象に残らず、音楽はあったことすら忘れてしまうようなもの。これは凄い。この映画はDVDでもリリースされているので、是非映画そのものを見て頂きたい。

続く「ベリーンスキイ」作品85(監督:コージンツェフ)、「忘れがたい1919年」作品89(監督:チアウレーリ)の音楽はさらにつまらなくなってくる。前者はムニャツァカノフ/ベラルーシ放送SO(Citadel)、後者はガーウク/ソヴィエト国立放送O(Monitor)の演奏で耳にすることができるが、正直言って退屈する。ただし、後者の組曲作品89aの第5曲「クラースナヤ・ゴールカの猛攻」のみを演奏したアレクセーエフ(Pf)、マクシミウク/イギリス室内 O(Classic for Pleasure)は、なかなか逸品。

スターリン没後最初の映画は、東ドイツ制作の「偉大な川の歌」作品95(監督:イヴェンス)。ワルツのみオーベリアン/モスクワ室内O(Delos)の演奏で聴くことができる。「馬あぶ」作品97(監督:ファインツィンメル)は、別項で述べた。「第1軍用列車」作品99(監督:カラトーゾフ)の第8曲ワルツは、ジャズ・オーケストラのための第2組曲 Sans op. Gの第6曲と同じ。この他、第3曲の全ソ・ラジオ・歌のアンサンブル(Melodiya, 10" mono)による楽しい演奏もあるが、非常に素敵なのは第9曲「女中の歌」。ロザレヴァ&ロバチェヴァ(Voc)、ヤクシェフ&グリチェンコ(G)(Melodiya, 10" mono)盤で聴くことのできる清らかな抒情は極めて魅力的。哀愁漂うギターの響きと、伸びやかな女声二重唱との絡みが実に心地好い。ChandosのDVD/CD-ROMにも収録されているので、ファンならば是非一聴されたい。

東ドイツとの共同制作作品「5日5晩」作品111(監督:アルンシターム)は、ドレスデン空爆のエピソードを描いたもの。滞在中のドレスデンで書き上げ、同時に名作弦楽四重奏曲第8番作品110も作曲した。この曲辺りから、映画音楽にもショスタコーヴィチ後期作品の特徴が反映されてくる。E. ハチャトゥリャーン/ソヴィエト映画省SO(Melodiya, 10" mono)盤が、情感たっぷりの歌心やロシアン・テイスト満載の響きなど、このコンビの魅力が余すところなく発揮された、この作品の決定盤。CD化が一切されていないのは残念。クチャル/ウクライナ国立SO(Naxos)盤も、実に丁寧な演奏。やや線は細いが美しい響きに満ちていて、曲を再認識させるような出来映えだ。ショスタコーヴィチの映画音楽中、もっとも充実しているものの一つが、「ハムレット」作品116(監督:コージンツェフ)である。コージンツェフの重厚な映像を彷彿とさせるが、音楽単体での鑑賞にも耐えうる。1964年の全ソ映画祭最優秀音楽賞を受賞した作品。ラビノーヴィチ/モスクワ放送SO(Melodiya, LP)盤は、引き締まった音楽の流れと、アクの強さと表裏一体の硬質で輝きのあるオーケストラの音色が極めて魅力的。録音の鮮度はあまり良くないものの、この作品を語る上ではずすことのできない演奏。一方、グリン/ベルリン放送SO(Capriccio)もアンサンブルなど細部に乱れはあるが、全体に緊張感が張り詰めた壮大な演奏。音楽の運びも自然でありながら、決して平板ではない。「生涯のような一年」作品120(監督:ロシャーリ)はマルクスの伝記映画で、序曲に『ラ・マルセイエーズ』の引用などを配した、交響詩「十月革命」作品131などの系列に連なる音楽が非常に格好良い。録音はM. ショスタコーヴィチ/モスクワ放送SO(Melodiya, LP)盤1種類しかないが、静かな部分で音楽が若干弛緩するものの、このコンビらしい覇気に満ちた秀演。金管楽器の咆哮や打楽器の乱打には、否が応にも昂奮させられる。「ソーフィヤ・ペローフスカヤ」作品132(監督:アルンシターム)には、最近ムニャツァカノフ/ベラルーシ放送SO(Russian Disc)の録音が発売されたが、これを聴く限り、効果音のような短い音楽の集まりで、鑑賞に適するような作品ではない。中では、5曲目のワルツがきれいな曲で魅力的だ。ワルツ単独であれば、シャイー/ロイヤル・コンセルトヘボウO(Decca)が美しい。

ショスタコーヴィチ最後の映画音楽は、「リア王」作品137(監督:コージンツェフ)。身体の調子が非常に悪く、入退院を繰り返していながらも交響曲第14番作品135等の名作を精力的に作り続けていた時期の作品である。「ハムレット」作品と同様、非常に重厚で壮大な音楽で、最後を飾るに相応しい。ユロフスキー/ベルリン放送SO(Capriccio)セレブリエール/ベルギー放送SO(RCA)の2種類の演奏があるが、どちらも手堅くまとめられているものの、物足りなさが残る。

幸い、CD時代になってからショスタコーヴィチの映画音楽を容易に聴くことができるようになってきた。特に中期のジダーノフ批判後の作品群には様々な評価があるが、是非一度自分の耳で聴いて頂きたい。どんな背景があったにせよ、美しく、楽しい曲があるのも、また事実だ。


劇音楽「ハムレット」作品32

ショスタコーヴィチの劇付随音楽は、創作活動のごく初期に集中している。映画音楽が生涯に渡って書き続けられたのとは対照的である。また、ほとんどのスコアが紛失しており、現在耳にすることができるのは一部の作品だけで、しかもその中のさらに一部の曲をまとめたものだけとなっている。その中でも、この曲は全曲のスコアが残っている数少ない曲の一つである。

この曲は、1932年5月19日、ヴァフターンゴフ記念モスクワ劇場にて上演された、ニコラーイ・アキーモフによる新しい演出によるシェークスピアの『ハムレット』のために作られた。この演出は、何から何まで原作に対してエキセントリックな解釈を施したもので、陽気な酒飲みのハムレット、レーニンそっくりの俳優が演じたポローニアス、あばずれで飲み過ぎのために溺死するオフェーリアなど、徹底的に喜劇化され、当時かなりの評判だったらしい。ショスタコーヴィチの音楽は、こうした奇抜な演出を彷彿とさせる非常に才気走ったもの。後年コージンツェフ監督による映画「ハムレット」(1964年)に作曲した、重厚で悲劇的な音楽と比較してみるのも一興か。

エルダー/バーミンガム市SO(CALA)には、5幕分全ての曲が収録されている。演奏自体もソツなくきれいにまとめられたもので、資料的価値は抜群。しかし、音楽として全曲通して聴くことは決して楽しい経験とはいえない。

一方、ショスタコーヴィチ自身が13曲を抜粋して構成した組曲作品32aは、簡潔かつバラエティに富んでおり、なかなか楽しい。ロジデーストヴェンスキイ/モスクワPO(Melodiya)が、若きロジデーストヴェンスキイの魅力が存分に発揮された名演。響き、節回し、勢い、全てが理想的。歌に溺れることなく、早目のテンポで乾いた響きと引き締まった音楽に仕上げているのも、ショスタコーヴィチの初期作品に対する相性の良さを窺わせる。また、フィードラー/ボストン・ポップスO(BMG)はいわゆる“ロシアの音”とは違うのだが、実にマイルドで豪華、しかもはちきれんばかりの明るさに満ちた名演。テンポも適切で、全てのリズムが生きている。安心して演奏に身をまかせることができる上に、聴いていると自然に微笑みがこぼれてくる。ロシアン・サウンドに拘る向きには、セローフ/レニングラード室内O(Melodiya)も薦められる。トランペットをはじめとする管楽器の音色が非常に良い。弱音部での弦楽器にやや物足りなさは残るが、全体としては理想的な仕上がりになっているといえるだろう。全編に漂う楽しい雰囲気も絶妙。

エルダー盤
(CALA CACD1021)
ロジデーストヴェンスキイ盤
(EMI ASD 3381, LP)
フィードラー盤
(BMG 09026-63308-2)
セローフ盤
(Melodiya MCD 131)

劇音楽「リア王」作品58a

グリゴリイ・コージンツェフ演出によるシェイクスピアの「リア王」上演のため、1940年に作曲された。上演は1941年3月24日に、レニングラードのゴーリキイ大劇場にて行われた。全23曲から成るこの曲は、後に同じコージンツェフが演出した「ハムレット」の舞台(1954年4月、レニングラード・プーシキン劇場)にもその大部分が流用された。

ショスタコーヴィチは、1970年に再びコージンツェフが監督をした映画「リア王」の音楽も担当した。どちらも断片的なもので、他の劇音楽や映画音楽と同じようには扱えないが、音楽的にはやはり晩年の映画音楽の方が興味深いことは否めない。しかしながら、劇音楽に含まれている2つの歌曲「コーデリアのバラード」と「道化の歌」は、なかなか面白い。レフ・ソリンによるピアノ伴奏用編曲もある。「コーデリアのバラード」は、フランスに追いやられたコーデリアが、郷愁や父親の運命を気づかう幕間の説明歌。歌謡性に富んだ、きれいな歌である。一方、「道化の歌」はいかにもショスタコーヴィチらしく、大変楽しい。ショスタコーヴィチが作った道化の歌は全部で10曲であるが、歌詞はマルシャーク(高名な児童文学者で「愚かな小ねずみ」の原作者)が翻訳したものを用いている。特に第1曲目は「ジングル・ベル」の節にのって歌われる。

全曲が収録されている録音には、あまり良い演奏がない。中では、ユロフスキー/ベルリン放送SO(Capriccio)盤が比較的マシか。演奏に関しては、抜粋が収録されているセローフ/レニングラード室内O(Melodiya)が良い。ここには「10の道化の歌」以外の主要な曲が大体収録されている。順序は適当に並び替えられている。音色をはじめとした雰囲気はなかなか。

「コーデリアのバラード」と「道化の歌」のピアノ伴奏版には、ネステレーンコ(B) & シェンデロヴィチ(Pf)(Victor)盤という素晴らしい録音がある。ネステレーンコは声自体も含めて理想的な出来。シェンデロヴィチのピアノも素晴らしく、全く隙のない名演である。この演奏さえ聴けば、この曲に関しては全曲を聴かなくても十分だろう。

エルダー盤
(CALA CACD1021)
セローフ盤
(Melodiya MCD 182)
ネステレーンコ盤
(Victor VICC-40082/83)

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Last Modified 2008.05.14

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