名盤(歌劇)

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歌劇「鼻」作品15

ショスタコーヴィチ最初のオペラ(音楽院時代にプーシキンの原作に基づいた未完の習作「ジプシー」を作曲したが、後年自らの手で破棄された)。原作はゴーゴリの有名な戯曲である。ショスタコーヴィチはゴーゴリを偏愛しており(その風刺的な作風を見れば、十分に納得できることだろう)、後に「賭博師」の全テクストをそのまま生かしたオペラを作ろうとしたこともあった(諸々の事情で未完のままに終ったが、そのテーマは最後の作品であるヴィオラ・ソナタの第2楽章に引用されている)。最初のオペラの題材としてこの作品を選んだ理由を、ショスタコーヴィチは次のように語っている:

現代では古典的な作品をもととしたオペラ、諷刺的な性格のテーマが最も現実味のあることを考慮し、ロシア諷刺文学の三人の巨人―ゴーゴリ、サルトゥイコフ=シチェドリン、チェーホフの作品のテーマをさぐりはじめた。

そのあげく、ゴーゴリの『鼻』に決まった。

ゴーゴリの他の作品でなくて、どうしてこの『鼻』なのか。この作品を読みなおせば、ニコライ1世時代の諷刺作品として、ゴーゴリのどの中篇小説よりもそれが強いということがわかる。第二に、文学の門外漢としては、「死せる魂」よりもこのほうがオペラ化しやすいと思ったから。わたしにはなんといって小品のほうが長篇よりも舞台化しやすいのである。

第三に、「鼻」の文章は、ゴーゴリの他の「ペテルブルグ物語」より表現力に富んでいて、「音楽化」する上でいろいろ工夫の余地がある。第四に、多くのおもしろい場面がふくまれている。(『労働者と演劇』1930年第3号:ショスタコーヴィチ自伝, p. 25)

台本は作曲者自身を含む4名の共同作業となっているが、ゴーゴリの原作を尊重したその大部分はショスタコーヴィチ自らの手によるものである。原作に変更を加えたのは第1幕第4場の舞台をカザン大寺院したことのみ。これは、カザン大寺院を舞台にすることがニコラーイ1世の検閲で禁じられていたために、ゴーゴリはそれをゴスチーヌイ・ドゥヴォール(アーケード)に移していたからである。一方、物語の中にない言葉が必要な場合は、全て出典を明記した上でゴーゴリの作品から引用している(「五月の夜」、「タラス・ブーリバ」、「昔気質の地主夫婦」、「イワン・イワノヴィチとイワン・ニキーフォロヴィチの喧嘩した話」)。この辺りに、ショスタコーヴィチの豊富な読書体験が反映されているといえるだろう。唯一の例外は第2幕第6場でコワリョーフの召使いイヴァーンの歌うアリアで、ドストエーフスキイの「カラマーゾフの兄弟」中にあるスメルジャコフの詩である。これはドストエーフスキイ自身が1879年に「40年前耳にした歌でどの曲集にもない」と友人に語ったもので、「つばを飛ばしながら歌う」というト書きがつけられているショスタコーヴィチの音楽も、何ともいえず滑稽だ。

この作品を手がけていた20歳台前半のショスタコーヴィチは、交響曲第1番作品10で大成功を収めた後、前奏曲とスケルツォ作品11、ピアノ・ソナタ第1番作品12、格言集作品13、交響曲第2番「十月革命に捧ぐ」作品14といった、極めて“前衛的”な作風に手を染めていた。「鼻」はこうした作風の集大成であり、初演当時は一般には十分に理解されず、「形式主義的傾向の頂点」として激烈なまでの批判を受けた。しかしながら、現在ではその真価が正当に評価され、ショスタコーヴィチの“最高傑作”と評する者も少なくない。

音楽は非常に独創的なもので、“オペラ”という言葉から連想される美しい歌はほとんど見当たらない。複雑で特異なリズムや、全く新奇なオーケストレイションなど、初期ショスタコーヴィチの魅力と凄さが存分に発揮された、天才的な作品である。調子はずれのカン高い声でわめき散らす警察分署長(第1幕第2場)、打楽器だけの間奏曲(第1幕第2〜3場)、寝起きのコワリョーフのあくび(第1幕第3場)、各々が勝手に新聞広告を読み上げる八重唱(第2幕第5場)など、聴きどころは枚挙に暇がない。ちなみに、エンディングでゴーゴリの原作そのままの文章が読み上げられる部分は、1974年の公演の時に付加されたポクローフスキイの演出で、当初はなかった。

1929年6月16日に演奏会形式での初演が行われた後、オペラの初演は1930年1月18日、レニングラードの国立マールイ劇場において、サモスードの指揮により行われた。また、全曲初演を待ちきれなかったショスタコーヴィチは、7曲からなる組曲作品15aを編集し、1928年11月25日にマリコーの指揮で初演を行っている。初演後、間もなくこの作品はソ連の劇場のレパートリーからはずされてしまう。1957年(交響曲第11番作品103が初演された年)にデュッセルドルフで行われた上演辺りを皮切りに、徐々にこの作品の再演が行われるようになった。中でも作曲者自身が大変喜んだという1974年9月14日に行われたポクローフスキイ演出によるモスクワ室内音楽劇場の上演は、この作品の完全な復権を印象づけるものだった。この時のエピソードは、モスクワ室内音楽劇場による本作品のLD(EMI)の中で、ポクローフスキイ自身によって語られており、大変興味深い。

全曲録音は、上記1974年の復活上演の際に録音されたロジデーストヴェンスキイ/モスクワ室内音楽劇場O他(Melodiya)盤が、様々な点で優れている。この特異で複雑な曲を、ロジデーストヴェンスキイは持ち前の器用さで見事に消化している。しっかりとツボを押えているので、滑稽な部分が理想的なグロテスクさを持って再現されている。声楽、器楽ともに丁寧なアンサンブルで、まさに決定盤としての地位を確立しているといえるだろう。完成度という点では、ゲールギエフ/マリイーンスキイ劇場O他(Mariinsky)盤が、隅々まで丹念に磨きあげられ、よく整えられた美演である。オーケストラも声楽陣も、この曲のスコアをここまで滑らかに音化した演奏は、少なくとも現時点では他にない。ただし、いかにもゲールギエフらしい流麗な音楽が、この作品に相応しいものかどうかは意見がわかれるところだろう。この他に、1995年に行われた上演を収録した映像、アグロンスキイ/モスクワ室内音楽劇場O他(EMI)盤もある。これはショスタコーヴィチ本人が関与して行われた、1975年の復活上演と同じ団体・演出による公演のライヴ映像。演奏そのものは上記ロジデーストヴェンスキイ盤と比較できるようなものではないが、ポクローフスキイの才気溢れる演出による生き生きとした舞台を実際に目にできることの意義は極めて大きい。劇場の雰囲気もよく捉えられている。また上述したように、ポクローフスキイとイリーナ未亡人、ショスタコーヴィチに直接指示を受けた出演者達によるインタビューも収録されている。復活初演から5年後の1979年に収録されたロジデーストヴェンスキイ/モスクワ室内音楽劇場O他(VAI)盤は、カメラワークが稚拙ですらあり、舞台の完成度も含めた映像としての総合点ならば、1995年のLDに軍配が上がるだろう。しかし、細かな演出や演技を磨きあげつつある過程ならではの猥雑な熱気とでもいった独特の雰囲気は、作品の持ち味と共鳴してとても魅力的である。特典映像は、リハーサル時(1974年)のショスタコーヴィチの姿を収録したものと、ポクローフスキイが「鼻」について語ったものの2つ。どちらも数分程度のごく短い映像ではあるが、特に前者は、最晩年のショスタコーヴィチが最初期の作品を隅々まで記憶していたという証言を裏付ける貴重なもの。ただし、残念ながら日本語字幕はない。

一方、組曲作品15aには全曲のように理想的な演奏はない。中では、ユロフスキイ/ケルン放送SO他(Capriccio)盤がなかなか。全曲が堅実なアンサンブルとツボを押えた演奏で、この曲の真価を適正に伝えている。ただ、やや真面目に過ぎるために、ショスタコーヴィチ自身が意図しなかったであろう“立派な”出来に仕上がっているところで評価が分かれるかもしれない。

ロジデーストヴェンスキイ盤
(Victor VICC-40069/70)
ゲールギエフ盤
(Mariinsky MAR0501)
アグロンスキイ盤
(EMI TOLW-3747/8, LD)
ロジデーストヴェンスキイ盤
(VAI 4517, DVD)
ユロフスキイ盤
(Capriccio 10 779)

歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」作品29
(歌劇「カテリーナ・イズマーイロヴァ」作品114)

歌劇「鼻」、バレエ「黄金時代」と「ボルト」、「新バビロン」と「女ひとり」という2つの映画音楽、そしていくつかの劇音楽など、数々の劇場用音楽に携わってきた初期ショスタコーヴィチの集大成とも言える作品である。作曲の動機は完全に自発的なもので、原作は、N. レスコーフが1864年に書いた同名の小説である。歌劇の題材としてこの小説を選択した理由としては、親交のあったクストージェフが1920年代にこの小説を収録した本(出版は1930年)の挿絵を描いていたこと、1927年6月にベルクの歌劇「ヴォツェック」がレニングラード初演されたこと、1927年に無声映画「カテリーナ・イズマーイロヴァ」が上映されて話題になっていたこと、B. アサーフィエフの勧めでこの小説を読んでみたことなどが挙げられている。

台本は「鼻」でも共同作業を行ったA. プレーイスが担当したが、レスコーフの原作に対する独自の解釈は、ショスタコーヴィチ自身によるものである:

……「ムツェンスク郡のマクベス夫人」のテーマは、レスコフの同名の作品から借りたものである。この作品は、そのおどろくべき鮮明さと内容の豊富さとで深い感銘を与える。才能にめぐまれた、賢い、すぐれた女性が、革命まえのロシアの悪夢のような条件のもとで身を滅すにいたる、真の意味での悲劇的な物語のこの作品は、わたしの見るところ、第一級のものといっていい。……

……これは、革命前ロシアのある暗い時代のきわめてすぐれた画像にほかならない。作曲家にとって、「マクベス夫人」は文字どおりの宝庫である。各登場人物の性格はみごとに描かれ、劇的な葛藤がじつに生き生きと描きだされている――こういったすべてがわたしをとらえてはなさない。台本は、わたしと共同して、レニングラードの若い劇作家プレイスが書いた。ほとんどレスコフの小説と変るところはないが、第三幕だけは別で、社会的なモメントが原文よりも強調されている。舞台が警察に移ってからのエカテリーナ・リヴォーヴナの甥の殺害の件は省いた。

わたしは、このオペラを悲劇としてつくった。オペラ「マクベス夫人」は悲劇・諷刺のオペラと呼んでもいいかもしれない。女主人公エカテリーナ・リヴォーヴナは、夫や舅の殺人者であるにもかかわらず、彼女にわたしは強くひかれる。彼女をとりまくすべての風俗には、暗い諷刺的な性格をつけくわえるようにした。この「諷刺的な」という語を、わたしは決して「滑稽」「冷笑的な」ものとは考えていない。それどころか、わたしは「マクベス夫人」において、暴露的な諷刺、仮面の剥奪、そして商人風俗のあらゆる恐るべき専横、愚弄にたいする憎悪のオペラを想像しようとしたのである。(『ソヴェト芸術』1932年10月16日号:ショスタコーヴィチ自伝, pp. 35〜36)

作曲は1930年10月14日から2年以上をかけて行なわれた。第3幕の作曲をしている最中の1932年5月13日にはニーナと正式に結婚したこともあってか、この作品はニーナに献呈されている。1932年12月17日に、ひとまず全曲が完成し、初演の準備が始められた。初演は1934年1月22日、レニングラード・マールイ劇場にてサムイール・アブラーモヴィチ・サモスードの指揮によって行なわれた。この劇場とライバル関係にあったモスクワのネミローヴィチ=ダーンチェンコ劇場においても、その2日後に初公演がなされている。このモスクワ公演では、独自の演出意図を打ち出すために、タイトルが「カテリーナ・イズマーイロヴァ」とされた。

歌劇の内容について、ここでは主要な登場人物に対するショスタコーヴィチ自身の言葉を示す。あらすじはレコードの解説書や各種の評伝等を参照されたい。

レスコフは、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の女主人公を魔物のようなものとして描いている。彼は、女主人公に何の道義的な動機も、心理的な弁明もあたえていない。このエカテリーナ・イズマイロワは、ロシアの封建的な商人の家の暗い、苛酷な家庭環境にあって身を滅す、精力的な、才能のある、美しい女性だとわたしは思う。レスコフのこの女性は、夫、舅(夫の父)、夫のいたいけな甥っ子を殺す殺人者である。しかも最後の殺人が、並はずれた貪欲と夫の遺産の主な相続者を亡きものにしようとする願望とを示していて、とりわけ悪辣で許しがたい。

わたしは悲劇の主人公たちを心理的に性格づけ、同時に群集場面で当時のロシアの社会環境を描きだそうとつとめた。

エカテリーナ・イズマイロワの舅ボリース・チモフェーヴィチは、封建ロシアの典型的な堅実な商人である。だが周囲のものすべてに指図し人をあなどることに慣れ、またそうすることの好きな権勢欲のつよい暴君である。その性格の基本的な特徴は、非人間的な残酷さである(彼の役はドラマチック・バリトンが歌う。リリックではない)。ボリース・チモフェーヴィチが一つの心理的な状態から他のそれに移るときには、音楽は転調であらわされない。なぜなら、この人物は、深い精神の動きにはふさわしくないからである。

エカテリーナの夫ジノーヴィー・ボリーソヴィチは父親にたえずびくびくさせられている商人で、力によって支配された農奴制的な家庭のなかのみじめな、意志のよわい白痴的な人間である。彼は、父親の専制的な権力に反抗する力ももたず、あらゆる点で父親をまね、エカテリーナやほかの目下のものに誰彼の区別なく暴君として対しようとする。この役は、高いテノールが歌う。この男を性格づけるのにわたしは「音楽的暴露」の方法をもちいた。たとえば、第二幕の終り、エカテリーナの寝室の場で、妻の不貞をはじめて確信したジノーヴィーがはいってくる直前には厳粛な、ファンファーレの音楽がなり、観客は何かしらひどく悲劇的な、恐ろしい場面を待ちうけることになる。そして実際、ジノーヴィー・ボリーソヴィチが優柔不断の、おどおどした、知恵のない小人物として登場する。

エカテリーナの番頭セルゲイにたいする愛は、彼女の暗い生涯を色どるたった一つの喜びである。しかしセルゲイ自身は肯定的なタイプではなく、やや甘い、いんぎんすぎる、くだらぬ人物のように、わたしは思う。これは美しい女との恋愛よりもむしろそれが女主人との関係であることに満足するような利己的な人物である。セルゲイがエカテリーナに恋をうちあけるところ、その他のセルゲイが重要な役割をはたす最もロマンチックな場面は、この人物をいくらか誇張した、絵画風の甘さといんぎんさとで描きだした。彼はテノールで歌う。

セルゲイが破廉恥漢、残酷な乱暴者としてふるまう第四幕では、その性格描写には荒い、軽音楽風の音楽を利用した。

わたしは、エカテリーナ・イズマイロワを、複雑な、純粋な、悲劇的な性格として解釈した。これは恋多き女、多感な女で、けっしてセンチメンタルでない女である。だから彼女の性格描写には、深い抒情的な音楽でその精神状態をあらわした。第四幕では、エカテリーナが、セルゲイがソネートカといっしょに軽薄に荒々しく自分を裏切ったことに失望するところでは、いささかも涙もろさを感じさせない、センチメンタルでないドラマチックな音楽をつかった。

このオペラにはいくつかの群集場面がみられる。まず、手代連中の合唱である。手代の扱いは、ジノーヴィー・ボリーソヴィチとボリース・チモフェーヴィチの商人環境とけっして衝突するものではない。彼らは、ボリース・チモフェーヴィチをまねたいと夢みるだけの、商人=農奴制主義者の性質を秘めている粗野な連中である。セルゲイはその一人で、小意気な以外、少しも彼らと変ったところはない。第四幕のはじまりは、流刑囚の宿営地の群集場面である。それは流刑囚の悲劇的な合唱ではじまるが、ロシア・ツァーリ農奴制の暗い情景をあらわしている。こういった流刑囚の合唱は第四幕の終りにもある。この合唱はこの時代の流刑囚の宿営歌の形式、性格をたもっている。(『ソヴェト芸術』1933年12月14日号:ショスタコーヴィチ自伝, pp. 42〜44)

この歌劇は初演直後から大きな反響を呼び、批判的な意見もあったとはいえ、概して絶賛された。初演後の2年間で、初演を行ったレニングラード・マールイ劇場では83回、モスクワのネミローヴィチ=ダーンチェンコ劇場とボリショイ劇場では計94回、加えてラジオ放送が6回も行なわれた。こうした大成功を受けて、ショスタコーヴィチは壮大かつ具体的な構想まで発表した:

わたしはソヴェトの「ニーベルングの指輪」を書きたいと思っている。女性についてのオペラ四部作であって、その一つ「マクベス夫人」は「ラインの黄金」にあたるものである。これにつづくオペラの女主人公は、人民の意志派運動の女性となるだろう。それから、今世紀の女性。そして最後に、わがソヴェト時代の女性、ラリーサ・レイスネルからドニェプル建設場の最もすぐれたコンクリート女工ジェーニャ・ロマニコまでの、今日と明日の女性を集約的に示すような女主人公を描くだろう。このテーマが、わたしの芸術思索と今後十年間のわが生活のライトモチーフとなる。(『クラースナヤ・ガゼータ』1934年2月10日号:ショスタコーヴィチ自伝, pp. 47〜48)

しかし、1936年1月26日に、側近を伴ったスターリンがモスクワ・ボリショイ劇場でこの作品を観たことで、全ては一変した。その2日後、「プラウダ」紙に悪名高き「音楽のかわりに荒唐無稽」という論説が発表され、歌劇の上演は直ちに中止、ショスタコーヴィチ自身も猛烈な批判にさらされることとなった。以後、この歌劇は“幻の作品”となる。

それから18年が経った1954年12月3日、この作品を捧げた妻ニーナが急死した。彼女を偲ぶかのようにショスタコーヴィチはこの歌劇の改訂に着手したが、この時は実際に上演されることを意識はしていなかった:

僕がこれ(注:「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の修正作業)をやるのは劇場の為ではない。今の僕は、このオペラが舞台に掛けられるか否かという問題には、あまり興味がない。なにしろ、あれだけの醜聞と罵詈雑言にまみれた作品だからね。(『Story of a friendship』, p. 57:日本ショスタコーヴィチ協会1996年度会報, p. 37;一柳富美子訳)

この修正は、1955年3月19日にマールイ劇場における劇場芸術部との会議の席上、ショスタコーヴィチ自身の演奏によって試演された。この時、1955〜6年のシーズンに改訂版が上演されることが決定されたため、台本全体の再検討を含む本格的な改訂作業が始められた。そこでは、下品な台詞の修正と、過度に自然主義な音楽(第1幕第3場など)やいくつかの間奏曲(第1幕第1場と第2場の間奏曲、第3幕第7場と第8場の間奏曲)が新しいものに差し替えられた。

結局、この計画は実現せず、「マクベス夫人」改訂版の上演にはさらに時間を要することとなる。1956年3月12日には、V. モロトフの命令で召集された委員会(議長はカバレーフスキイ)で、「音楽のかわりに荒唐無稽」に匹敵するほどの痛烈な批判にさらされた。しかし、スターリン批判を受けて1958年5月28日に「オペラ『偉大な友情』、『ボグダン・フメリニツキー』、『心の底から』に対する誤った評価の訂正に関して」という決議が採択されたこと、ショスタコーヴィチが共産党員となったこと、そして1959年11月にライン・ドイツ・オペラが改訂前の「マクベス夫人」をドイツ初演したことなどを背景に、フレーンニコフは「いつまでもこのオペラを禁止するのは、きわめて不適切だ」と党中央委員会に申し出た。こうしてついに1961年6月、モスクワの作曲家同盟で審査された上で、改訂版の上演が認められた。この版には「カテリーナ・イズマーイロヴァ」作品114という、題名も作品番号も新規のものが与えられ、1963年1月8日、スタニスラーフスキイ・ネミローヴィチ=ダーンチェンコ劇場にてゲンナーヂイ・パンテレイモノヴィチ・プロヴァトロフの指揮で初演された。

以上のように、この作品が辿った過程には政治的な要因が大きく影を落としている。そのために、改訂版である作品114は政治的妥協の産物として評価され、とりわけ『証言』の出版以降は西側で演奏されるのは作品29ばかりとなっている。しかし、問題はそう単純でない。というのは、作品29にも複数の稿が存在しているからである。中田朱美氏の研究によると、作品29には以下の諸稿が存在している:

これらは、上演準備中になされた歌詞(あるいは台詞)を中心とする修正の過程を明らかにするものである。この過程で、極端に粗野で過激な言葉が変更されるとともに、カテリーナの描写自体も情欲を前面に押し出すエゴイスティックな女性から、深い情感を備えた抒情的で悲劇的な女性へと変化していった。ショスタコーヴィチがグリークマンに宛てた手紙(1955年3月21日付)の中に「出版前に、かなりの箇所をどうにか修正できたんだ」という一節があることから、ここで言及されている1935年版のヴォーカル・スコア(DSCH社から、リプリント版が刊行されている)が作品29の決定稿であると見なすことができる。作品114の改訂作業も、このヴォーカル・スコアに基づいて行なわれている。

この作品29の修正作業は、作品114に至る改訂作業とその基本的な思想に違いはない。また、2つの間奏曲を中心とする音楽の改訂も、こうした考え方(過激で直接的な表現をより洗練させる)を反映している。この文脈で捉えるならば、作品114はむしろ、この作品の最終稿として積極的に評価されるべきとも考えられる。事実、ショスタコーヴィチ自身もそのように考えていたということが、グリークマンやフェイなどによって主張されている。差し替えられた間奏曲等のどちらが優れているかという議論はあるだろうが、政治的背景を抜きにした作品114の再評価が今後なされることで、この歌劇の真の姿が明らかになるものと期待される。

1967年に、作品114の映画版(シャピーロ監督)が公開された。ここではショスタコーヴィチ自身が台本を書き、さらに録音と編集(間奏曲に若干の変更や省略がある)にも指示を与えている。注目すべきは、ここでも台詞の修正(作品29の言葉が復活している箇所もある)も行われていること。場合によっては、この映画版をもって、この作品の決定稿とすることもできるだろう。この映画で用いられた演奏について、ショスタコーヴィチは「わたしのみるところその演奏は第一級のもので、作曲者の意図にきわめて忠実、最も深い、心のこもったものである 」と評している。ヴィシネーフスカヤ(S)、ドレティヤーク(T)、シメオーノフ/キエフ歌劇場O他(Dreamlife)によるこの映画は、本作品を語る上で絶対に見逃してはならない。

作品114では、レーン(S)、コークラン(T)、アーロノヴィチ/ローマRAI O他のライヴ盤(Allegro OPD-1388)が、イタリアのオーケストラにもかかわらず、見事なまでにロシアの響きに満ちていて、決して巧いタイプの演奏ではないものの、ライヴならではの高揚感を持った魅力的な録音である。ソ連時代の録音では、全曲の初録音ながら技術的な精度が低いアンドレーエヴァ(S)、エフィモフ(T)、プロヴァトロフ/スタニスラーフスキイ・ネミローヴィチ=ダーンチェンコ劇場O他(Melodiya)盤よりも、ツィポラ(S)、ドゥブロヴィン(T)、トゥルチャク/キエフ・シェフチェンコ劇場O他(Melodiya)盤の方がよくまとまっていて聴き応えがある。

一方、作品29は録音や映像に恵まれていて、いくつかの選択肢がある。まず筆頭に挙げなければならないのが、全曲の初録音で今なお燦然と輝く名演であるヴィシネーフスカヤ(S)、ゲッダ(T)、ロストロポーヴィチ/ロンドンPO他(EMI)盤。ヴィシネーフスカヤをはじめとした名歌手達の切実な表現力は圧倒的で、オーケストラの仕上がりがやや粗いものの、猛烈な爆発力と尋常ならざる緊張感がそうした不満を全て払拭する。何より全曲を貫く壮絶な集中力が凄まじく、あらゆる音に説得力があり、あらゆる表現に納得させられる。指揮者ロストロポーヴィチ最大の成果と言ってよいだろう。ユーイング(S)、ラーリン(T)、チョン/パリ・バスティーユ歌劇場O他(DG)盤は、この熱い共感と熱狂の対極にある、整然としていながらも戦慄の走る凄みに満ちた、これもまた名演。スコアの隅々にまで目の行き届いた緻密な仕上げが、大変素晴らしい。ロシア色を前面に押し出すことなく、ロシアの作曲家ショスタコーヴィチの特質を見事に浮き上がらせているところに、チョンの非凡な才能が窺える。歌手陣も安定したまとまりを見せている。映像では、バルセロナ・リセウ大劇場での公演を収録した、セクンデ(S)、ヴェントリス(T)、アニシーモフ/バルセロナ・リセウ大劇場O他(EMI)盤が、高水準の舞台である。

この他、ショスタコーヴィチ自身による組曲作品29aや、間奏曲のみを抜き出したもの(作品114aとされているが、ショスタコーヴィチの手によるものではない)、他の作曲家や指揮者によって抜粋・編曲されたもの、パッサカリア(第2幕第4場と第5場の間奏曲)のオルガン編曲なども少なからず録音されているが、とにかくまずは全曲を聴いてもらいたい。

映画版
(Dreamlife DLVC-1104, DVD)
アーロノヴィチ盤
(Allegro OPD-1388)
プロヴァトロフ盤
(Melodiya C10 0871-8, LP)
トゥルチャク盤
(Melodiya C10 21393 004, LP)
ロストロポーヴィチ盤
(EMI CDS 7 49955 2)
チョン盤
(DG 437 511-2)
アニシーモフ盤
(EMI DVB 5 99730 9, DVD)

喜歌劇「モスクワよ、チェリョームシキよ」作品105

ショスタコーヴィチ唯一のオペレッタである本作品は、1957年に、モスクワ・オペレッタ劇場の首席指揮者グリゴリイ・アルノルドヴィチ・ストリャローフ(「ムツェンスク郡のマクベス夫人」のモスクワ初演をネミローヴィチ=ダーンチェンコ劇場にて指揮した)から新しい喜歌劇の音楽を担当して欲しいと依頼されたことによって作曲が始められた。当時はソ連の大都市の多くにオペレッタ劇場があり、そこでは独自の公演が行われて広範な人気を博していたこともあって、クラシック界の大物であるショスタコーヴィチがこのジャンルに挑戦したことは、多方面からの注目を浴びた 。

ベテラン作家であるV. マースとM. チェルヴィーンスキイが担当した台本は、ソ連の都会生活にまつわる日常の問題に対する風刺(雪どけ期に許された類いの軽いもの)と少々のロマンスとが混ぜ合わされていて、その内容もこの時代を反映した時事的なものであった。あらすじは、以下の通り:当時ソ連では、都市整備の一環として郊外に大規模な居住地区が開発されていた。「チェリョームシキ」とは、モスクワ南西部にモデルとして建造されていた高層住宅地域の名称である。数組の若いカップルをはじめとする登場人物達は、皆、チェリョームシキ地区のアパートメントへ入居することを熱望している。しかし、入居権を得る過程では、腐敗官僚のドレベドニョフと彼にこびへつらう管理人のバラバシキンによる不正とごまかしに翻弄される。しかし、最後はアパートメントの中にある「魔法の庭」で事態は解決し、最後には皆が素敵な新しい住居の鍵を手にする。

「呼応計画の歌」やバレエ「ボルト」、「明るい小川」からの流用、主題歌「チェリョームシキの歌」における大衆歌「楽しい日々もあった」の引用(映画音楽「黄金の丘」作品30でも使われた)、「モスクワ郊外の夕べ」の断片(第19曲)をはじめとする数々の大衆歌の引用などに満ちたこの音楽は、それゆえに親しみやすく美しい旋律に満ちている。さりげなく「ラヨーク」の一節が紛れ込んだりしているが、これはショスタコーヴィチ独自の二重言語というよりは、単なる遊び心のように思われる。1959年1月24日、モスクワ・オペレッタ劇場にて行なわれた初演時にも、ショスタコーヴィチの音楽は非常に好意的に受け入れられた。

初演にあたって、ショスタコーヴィチは次のような言葉を残している。

オペレッタの創作は、わたしにとって新しい仕事である。「モスクワ、チェリョームシキ地区」は、この魅力的なジャンルのわたしの最初の試みで、願わくばこれが最後の試みとならぬことを。わたしは熱中して、また非常な興味をおぼえながらこの仕事にはげんだ。われわれ――台本作者マッスとチェルヴィンスキー、指揮者ストリャローフ、演出家カンデラキ、画家キーゲリ、バレー演出者シャホフスカヤおよびすべての演技者諸君――の共通の努力の結果、楽しい、喜びにあふれた舞台ができあがるはずである。楽しい、ダイナミックな形式のこのオペレッタのテーマは、ソ連における住宅建設の最も主要な問題をあつかっている。オペレッタに活気をもたらし、さまざまな音楽方法とジャンルの求める曲目との利用の機会を生む少なからぬおどけた場面の転換を台本作者たちはつくりだしている。ここには抒情詩も、「カスカード」(舞踊)も、さまざまな幕間劇も、ダンスも、バレーの舞台さえもがそろっている。音楽の面では、ときには、パロディ的な要素、そう昔でないころのはやり歌やソ連の作曲家の歌などもとりいれられている。……

……この仕事は自分にとって無益ではなかったとわたしは思っている。この楽しい、生きる喜びにあふれたオペレッタというジャンルは心から好ましく、オッフェンバッハ、ルコック、ヨハン・シュトラウス、カルマン、レーガーのような名手の作品を高く買っているわたしは、自分のオペレッタの第一作がこのジャンルに価し、ソ連のよき聴衆に愛されることを心から願っている。(『ソヴェト音楽』1959年第1号:ショスタコーヴィチ自伝, pp. 285〜286)

しかし、初演直前の1958年12月19日付のグリークマン宛書簡では、次のように述べている:

恥ずかしさに身が縮む思いです。初演に来るつもりなら、考え直すことを勧めます。私が面目を無くすのを傍観するためだけに時間を浪費してもしょうがないでしょう。退屈で、くだらなく、ばかばかしい劇です。(『Story of a friendship』, p. 79:ショスタコーヴィチ ある生涯, p. 259)

結局のところ、この作品を二流たらしめている最大の原因は、稚拙とすらいえる台本の出来である。それは、舞台を見ている観客を満足させなかっただけではなく、ショスタコーヴィチの創作意欲を刺激することもなかった。結果として、魅力的な旋律や職人的なオーケストレイションが随所に見られるとはいえ、“忘れられた作品”となってしまったのも当然だろう。それでも、1962年末には映画『チェリョームシキ』(G. ラッパポルト監督)が公開され、1970年代半ば頃までは大晦日にテレビで放映されていたようだ。この映画は、原作を再編集したもので、ショスタコーヴィチも若干の曲を追加したりしているが、話の大筋に変りはない。

最初の全曲録音は、初演者でもあるストリャローフ/モスクワ・オペレッタ劇場O他(Melodiya)によって行なわれた。楽曲の配列や省略といった初演時の姿を知る上で貴重な記録だが、残念ながら筆者は未聴。11曲の抜粋盤(MK)を聴く限りでは、技術的には滅法粗くローカル色の強い演奏である。序曲や間奏曲などの、弾ききれていないのに、やみくもに勢いで押す濃厚で豊かな雰囲気を持った音楽の楽しさは、万人受けするものではないにせよ魅力的だ。この作品は、どうせならこういうタイプの演奏で聴きたい。現在最も入手しやすい全曲録音であるロジデーストヴェンスキイ/ハーグ・レジデンティO他(Chandos)盤は、少々豪華に過ぎる感は否めないものの、非常に華やかで美しく、楽しい演奏である。随所に顔を出すロジェストヴェンスキー独特のお祭りのようなリズム感も、曲によく合っている。

ショスタコーヴィチ生誕100年にちなんで、映画版(Decca)もDVD化された。音楽はラビノヴィチ指揮のレニングラードPOが演奏しており、ストリャローフ盤と同様のロシアン・テイストに満ちた雰囲気豊かなものである。このオペレッタの概略を映像で観られることに加えて、当時のソ連の若者の風俗と、チェリョームシキ地区の実際の姿を観ることができるのは、大変興味深い。日本語字幕はないが、この程度であれば英語字幕でほとんど不自由は感じない。

ストリャローフ盤
(MK 33D-11043-4, 10" mono)
ロジデーストヴェンスキイ盤
(Chandos CHAN 9591(2))
映画版
(Decca 074 3138, DVD)

歌劇「賭博師」作品K(i)

大祖国戦争のため、クーイブィシェフに疎開していた1941年12月28日に作曲が開始された。これは、交響曲第7番の終楽章が完成した翌日である。Hulmeのカタログによると1942年5〜6月まで作曲作業が続けられたことになっているが、ソレルチンスキイの「ショスタコーヴィチの生涯」によると1942年11月末の時点ではまだ作曲作業は続けられており、断念したのはその一ヶ月後ということにされている。

いずれにしても、ゴーゴリの戯曲「賭博師」の全テキストをそのまま生かしたオペラという試み(同じくゴーゴリの原作に基づいたムーソルグスキイの歌劇「結婚」を参考にしているともいわれる)は、第8場の途中で未完のまま放置された。全25場中最初の8場分だけでも50分を超える切目のない音楽になってしまったことが、筆を置いた理由だといわれている。

旅先で自慢のカルタ賭博で一儲けしようと考えている主人公イーハレフが、宿泊先で出会ったウチェシーチェリヌイ、シヴォーフネフ、クルーゲリを中心とする詐欺師に逆に騙されて大損をするという話だが、いかにもゴーゴリらしい気の効いたセリフ回しが楽しい。ショスタコーヴィチが原文に手を入れたくなかった気持ちもよく分かる。

音楽は、ショスタコーヴィチ自身がゴーゴリの文章を非常に楽しんでいたことがよく分かるようなもの。話が展開するのと同時にワクワクしている様子が、生き生きと音楽に反映されている。「鼻」の第2幕第6場でのイヴァーンのアリアを彷彿とさせる、バラライカ伴奏による第6場のガヴリューシカのアリア(イヴァーンもガヴリューシカも召使い!)も独特の風情があって楽しい。しかし、残された部分で圧巻なのは第8場で博打が始まり、ウチェシーチェリヌイがイーハレフのイカサマに気付き、逆にイーハレフを騙しにかかる場面だ。ここでのショスタコーヴィチの音楽は、実に機知に富み、息もつかせぬような多彩な表情を見せる。登場人物が全て男性であるため、音楽の響きとしては地味になってしまいがちなところを、見事な管弦楽法で渋いながらもキラリと光る作品にまとめているのは流石だ。彼の最後の作品であるヴィオラ・ソナタの第2楽章にこの曲の冒頭部分が引用されていることも、彼自身決してこの曲を取るに足らないものだとは考えていなかった証拠ではないかと思う。

さて、現在この曲は3種類の録音を耳にすることができる。その中でも、作曲家の死後1978年9月18日にレニングラードで行われたロジデーストヴェンスキイ/レニングラードPO他(Melodiya)による世界初演のライヴ録音が、総合的に優れている。オーケストラの音色は当然ながら完璧だし、歌手も突出した魅力を持つわけではないが、安定した歌唱が好ましい。音楽自体はライヴ特有の高揚感というよりはどこか慎重な落ち着きを感じさせるが、この曲についてはむしろこの方がその魅力を理解することができるのではないだろうか。ショスタコーヴィチの音楽が持つ多様性が、十分に表現されている。

一方、この曲の未完部分の補筆が、生前ショスタコーヴィチと親交があったというポーランドの作曲家K. メイヤーによって1983年に発表されている。これは1993年に録音されたユロフスキイ/北西ドイツPO他(Capriccio)の録音で聴くことができる。資料としてある程度の興味はあるが、やはり補筆部分に関しては納得の行くような出来ではない。第8場でウチェシーチェリヌイの巧妙な話術につけたショスタコーヴィチの音楽と、同じ場面の後半でメイヤーがつけた音楽とでは、言葉に対する反応において雲泥の差がある。また第9場以降に関しては、ショスタコーヴィチの様式を尊重してはいるものの、やはり全くの別物というしかないだろう。エンディングも、これといったヒネりのないもので肩透かしを食ったような感じ。ユロフスキイの演奏は無難なものだが、オーケストラの音色がいかにもドイツ的で違和感が残る。歌手はなかなか。

ロジデーストヴェンスキイ盤
(BMG 74321 60319 2)
ユロフスキイ盤
(Capriccio 60 062-2)

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Last Modified 2011.01.11

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