名盤(協奏曲)

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ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調 作品77

ショスタコーヴィチの全創作の中でも、最高傑作の一つに位置づけられる名作。全4楽章からなる長大な作品は、第3楽章と第4楽章の間に置かれた巨大なカデンツァを頂点として演奏者に並外れた体力を要求する。ホルンとチューバ以外の金管楽器が入っていないことで一見勘違いしてしまうが、オーケストラ・パートの充実度も尋常ではない。ショスタコーヴィチらしく、第2楽章や第4楽章の伴奏音形の複雑さはオーケストラ奏者にとっても脅威であろう。それだけに、ソリストと指揮者、オーケストラが三位一体となって全力を尽くさなければ成立しない曲だともいえる。

1946〜7年のシーズンにD. オーイストラフが行った「ヴァイオリン協奏曲の歴史」という一連の演奏会を聴いたことがきっかけで、「初演者にダヴィード・オーイストラフがなることを想定しながら」書き始めたこの作品は、「ジダーノフ批判」の前後に渡って作曲された。かつて交響曲第8番が批判された際、敢然とショスタコーヴィチを擁護したこともあったユダヤ人の俳優ミホエルスが、1948年1月13日に遺体で発見された。彼の娘婿は作曲家のヴァイーンベルグということもあり、ショスタコーヴィチとミホエルスとは親交があった。この事件当日は、ショスタコーヴィチ自身も党中央委員会で行われた作曲家批判に関する会議に召集されていた。直後の1月19日に書き上げられた第三楽章には、こうした背景が深く投影していると考えて問題はないだろう。

「せめて汗を拭く余裕くらいは欲しい」というオーイストラフの訴えで第四楽章冒頭のヴァイオリン独奏がオーケストラのトゥッティに変更された以外 は、ショスタコーヴィチ自身はヴァイオリンを弾くことができなかったにもかかわらず、作品に修正の必要は全くなかったという。作品が完成してすぐにオーイストラフは初演の準備を始めたが、当時のショスタコーヴィチを取り巻く情勢の中で初演が見送られたことは当然であった。1952年の夏には、初めて入手したテープ・レコーダーでピアノ伴奏用の編曲をオーイストラフに頼んで個人的に録音するなど 、この作品に対する思い入れは強かったようだが、初演が果たされるのはそれからさらに数年が過ぎた1955年のことであった。初演当時は作品番号が99とされていたが、後に元来の作曲時期に合わせた77へ変更されている(現在でも作品99と表記している録音がある)。第2楽章には例の「D-Es-C-H」音形が移調された形で現れる。これは「ラヨーク」を除くと、公表された作品の中で最も早い。他にも、ユダヤ民謡を思わせる旋律も顔を出す。いわば、ショスタコーヴィチ作品のエッセンスを詰め込んだ一曲だということができよう。

この複雑怪奇な難曲には、D. オーイストラフ(Vn) & ムラヴィーンスキイ/レニングラードPO(Melodiya)の完璧な録音がある。ソロ・伴奏共に、技術的には非の打ち所もない上に、同じ時代を共有した強みからか全ての音符に魂が込められ、聴き手の心を掴んで放さない。いや、それどころか、聴き終わった後もその圧倒的な印象から逃れることは困難である。第1楽章の冒頭から濃密な意味を持った無限旋律が奏でられているのは、この演奏だけだといっても過言ではない。第2楽章の際立った集中力は、このコンビだからこそ成し得た奇跡だろう。単なるテンポの早さに耳を奪われてはいけない。呼吸することすら忘れてしまうような、音楽の隙のなさが尋常ではないのだ。そして全曲の頂点、第3楽章である。この慟哭、などという軽薄な言葉では表現しきれない深い情感に感動できない者は人間ではない。パッサカリアという古典的な形式にのって、次々と音楽が繰り出され、高まり、深淵に突き進んでいく様は圧倒的だ。続くカデンツァは、神様オーイストラフのまさに神業。全ての宗教を否定した社会主義国ソヴィエトの神は、ここにいた。多くの演奏がショーピースに堕してしまっている第4楽章も、何と意味深いことか。有無を言わせない熱狂の裏に、決して癒されることのない苦しみが感じられる演奏は他にはない。全曲を通してヴァイオリン1台を相手に手加減しないムラヴィーンスキイ/レニングラード・フィルも異常だが、それに堂々と対峙できるオーイストラフもとんでもない。この曲はよく「ヴァイオリンのオブリガート付き交響曲」と形容されるが、作曲家が求めていたのはこの演奏で実現されているバランスでの「協奏曲」だったのだということを痛感させられる。録音は非常に悪いが、そんな理由でこの演奏を避けることなどは愚の骨頂である。

オーイストラフには現時点でこの他に5種類(正規録音は2種類)の録音があるが、いずれもオーイストラフ自身のミスや技術の衰え、あるいは指揮者/オーケストラの力不足もあり、この演奏の深みには達していない。しかし、それでも他を寄せ付けない別格の位置を保っているのも事実。上記Melodiya盤を入手できない場合も、他の演奏を買うくらいならば、オーイストラフによるものを選ぶべきだ。

さて、オーイストラフの“正統的”な名演の一方で、L. コーガン(Vn) & コンドラーシン/モスクワPO(Melodiya)という独自の境地を持った演奏も忘れがたい。コーガンには5種類の録音と映像(ただし、カデンツァなどカットされている箇所が多い)が残されているが、徹底してソリスティックに押し切る彼のスタイルのために、あまり違いは感じられない。“ソリスティック”とはいっても、コーガンの場合は決して悪い意味にはならない。曲のすみずみにまで張り詰めた神経の行き届いた、驚異的な演奏である。異常なまでのテンションの高さながら、決して雑になることがない。内面は熱く燃えたぎっているいるのに、あくまで表面上は冷徹な様相が保たれているのが特徴的。透徹した独特の音色が、その凄みをより一層増している。鮮やかな切味には脱帽する。コーガンの演奏では、徹底してこの曲の「協奏曲」としての側面が押し出されてくるが、ショスタコーヴィチの音楽が十全に表出されている辺りが、並のヴァイオリニストとの決定的な差である。

この2人を聴けば、後はいらない、と言いたくなる誘惑を押えられなくなるのだが、カガーン(Vn) & ラザレフ/ソヴィエト国立SO(Live Classics)を聴き逃してはならない。技術的にも音楽的にも極めて高い完成度であり、加えてライヴならではの熱気がたまらない。オーイストラフの懐の深さにコーガンの鋭い切れ味を足した…とでも言えばよいだろうか。背筋の凍り付くような恐ろしさを感じさせつつも、生のエネルギーが漲っている。オーケストラもスケールの大きな、異様なまでに暴力的な腕力全開の大熱演。歴史的録音であるY. シトコヴェツキィ(Vn) & ガーウク/モスクワ放送SO(SYD)盤も素晴らしい。この清潔感と暖かさを持った正確無比のヴァイオリンは、まさに非凡。やや線は細いものの繊細一辺倒ではなく、音楽のスケールは実に大きい。テンポ設定をはじめとした解釈も文字通り模範的なもの。(おそらく)この演奏を聴いたショスタコーヴィチが『自伝』の中でその演奏を絶賛しているのも頷ける。ガーウクの伴奏は今一つコントロールされていないものの、咆哮するホルンやティンパニのアクの強さは一種の魅力を醸し出している。好き嫌いはわかれるだろう。ただ、残念なことに録音はお世辞にも良いとは言えない。

次に挙げる若手の演奏も一聴の価値がある。まずはオーイストラフの路線を踏襲しているレーピン(Vn) & ナガノ/ハレO(Erato)。楽器を操作する技術に関しては、オーイストラフを凌ぐといっても過言ではないだろう。音楽のスケールも非常に大きい。ただ、伴奏は健闘しているものの物足りない。一方、コーガンの弟子でもあったムローヴァ(Vn) & プレヴィン/ロイヤルPO(Philips)は、その颯爽とした切味の良さで聴かせる。バックのプレヴィンともども、どこかこの曲の深淵と関わることを拒絶しているような潔さが、「ヴァイオリン協奏曲」としての格好良さを強調する結果になっているようだ。この2人に比べて知名度はやや落ちるし、若手とも言い難いがモルドコヴィチ(Vn) & N. ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナルO(Chandos)の演奏も、ソロとオーケストラとのバランスが優れており、その土臭い個性的な表情ともども、なかなか興味深いところだ。

D. オーイストラフ盤
(Victor VICC-2132)
L. コーガン盤
(Russian Disc RD CD 11 025)
カガン盤
(Live Classics LCL 105)
Y. シトコヴェツキィ盤
(SYD SYD005)
レーピン盤
(Erato WPCS-4552)
ムローヴァ盤
(Philips 422 364-2)
モルドコヴィチ盤
(Chandos CHAN 8820)

ヴァイオリン協奏曲第2番嬰ハ短調 作品129

「十月革命」50周年にあたる、1967年の革命記念行事に初演する作品として作曲されたことになっている。本当は、友人の名ヴァイオリニスト、D. オーイストラフの60歳の誕生日を祝うために作られたが、作品が完成するまで自分が何を作曲しているのかを他人には決して明かさない性格だったため、オーイストラフの誕生日を1年早く勘違いしていたことに気付かなかったという説が有力だが、フェイによるとその根拠は薄弱らしい。ちなみに、“本当の”還暦記念には、ヴァイオリン・ソナタ作品134が捧げられた。

「第1番」の20年後に作曲されたこの曲は、ソナタ形式の第1楽章、3部形式の第2楽章、ロンド形式の終楽章からなる古典的な協奏曲の構成を取っており、バロック組曲的な構成をもつ「第1番」とは異なった様式を持っている。しかしながら、6曲に及ぶ協奏曲作品の最後を締めくくるに相応しい、熟達した書法の中にショスタコーヴィチの個性が十分に発揮された名作である。D.オーストラフを念頭において作曲されたこともあり、ソロ・パートの難易度も高い。技術的には「第1番」よりも困難な部分が多いだろう。内向的で深い思索に耽っているかのような雰囲気はショスタコーヴィチの後期作品に共通する傾向だが、トム・トムを中心とする打楽器とソロとのぶつかり合いは、チェロ協奏曲第2番作品126と同様、圧倒的な迫力と共に鮮烈な印象を残す。また、極めて甘美な緩徐楽章は、作品番号120番台後半から140番台の作品に顕著なものである。この透明な色気、とでも形容できる独特の響きは、非常に魅力的だ。

1967年10月26日に初演を行ったD. オーイストラフ(Vn) & コンドラーシン/モスクワPO(Melodiya)のスタジオ録音は、初演コンビによる演奏という歴史的な価値だけに留まらず、この曲のあらゆる側面を十全に表現し切った偉大な記録である。オーイストラフの全盛期とは違って少し枯れた音色も、この曲においてはふさわしい。リズムやディナーミクの扱いも完璧。文句のつけどころがない。特に、各楽章のカデンツァの素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。本来ならばバックはムラヴィーンスキイ/レニングラードPOを望みたいところだが、交響曲第13番作品113以降、ショスタコーヴィチとムラヴィーンスキイとの関係が微妙であったことを考えると、最良の選択だったともいえるだろう。ショスタコーヴィチの音楽では、全体の音色や響きといったものが極めて重要であるが、この録音ではまさしく理想的なものを聴くことができる。

D. オーイストラフ(Vn) & スヴェトラーノフ/ソヴィエト国立SO(intaglio)のライヴ録音も、聴き逃すことはできない。とにかく、オーイストラフの曲理解の深さに驚嘆させられる。他の演奏者であれば単に走っているとしか思えないところでも、まるでショスタコーヴィチの自演を聴いているかのような錯覚にとらわれる。また、どんなに走ってもリズムが崩れないのも凄い。圧巻は第3楽章のカデンツァ。聴いていて窒息しそうになるほどの緊張感と勢いは最高。第3楽章のはじめの方で間違えているところがあるなどライヴ特有の瑕もあるが、聴き終えた後の感動と充実感はもの凄い。トム・トムの強打など、オーケストラには外面的な迫力だけではなく、内面から沸き上がる情熱と緊張感が求められるが、このスヴェトラーノフ/ソヴィエト国立SO、上記のコンドラーシン/モスクワPO共に音楽的な緊張感(リズムの複雑さ=演奏の困難さに起因する緊張感は抜群であるが)に若干の不満は残るものの、彼らを超える演奏は今のところない。両者を比較すると、スタジオ録音とライヴ録音との差もあるだろうが、スヴェトラーノフの方が土臭い力強さに溢れていて魅力的だ。

元々録音点数の少ない曲だけに、オーイストラフの偉大な演奏に匹敵する魅力をもった録音は、残念ながらない。その中で健闘しているものとしてはフェドトフ(Vn) & A. ヴェデールニコフ/ロシア国立SO(Triton)モルドコヴィチ(Vn) & N. ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナルO(Chandos)の2点が挙げられる。フェドトフ盤は、オーイストラフを彷彿とさせる真摯で内面的な演奏が好ましい。全体を貫く緊張感に不足するが、非常に高水準の演奏である。モルドコヴィチ盤は、ヤルヴィの伴奏共々外面的な勢いに満ちた演奏。これはこれで十分楽しい。ただ、時折力任せの汚い音がするのが残念。

D. オーイストラフ盤
(Victor VICC-2020)
D. オーイストラフ盤
(intaglio INCD 7241)
フェドトフ盤
(Triton 17 006)
モルドコヴィチ盤
(Chandos CHAN 8820)

チェロ協奏曲第1番変ホ長調 作品107

1959年に作曲され、同年10月4日にレニングラード・フィルハーモニー大ホールにてロストロポーヴィチのソロとムラヴィーンスキイ指揮のレニングラードPOによって初演された。プロコーフィエフの「チェロのための交響的協奏曲作品125」を聴いたことが作曲の動機だったと、ショスタコーヴィチ自身が語っている。この曲もロストロポーヴィチによる演奏で初演された(ちなみに、指揮はリヒテル)。

この曲は、チェロの技巧を前面に押し出した、非常に聴き映えのする音楽である。かといって外面的な効果にとどまることなく、ショスタコーヴィチらしい哲学的で内面的な深さも兼ね備えている(確かに「第2番」には及ばないが)。圧巻は、独立した楽章(第3楽章)に収められたカデンツァ。イントネーションやデュナーミクが周到に設計された演奏で聴くと、このカデンツァの凄さは筆舌に尽くしがたい。また、ピアノ協奏曲第1番作品35でのトランペットに相当する役割を担うホルンにも注目したい。輝かしいホルンと、腹の底から唸るようなチェロとの掛け合いはスリリングで楽しい。ティンパニの合いの手も効果的だ。

非常に効果の上がる曲だけに、数多くのチェリストが録音している。しかし、ショスタコーヴィチの作品に求められる音の強さやアクの強い音色に加え、この曲では有無を言わさない圧倒的なテクニックが必要とされる。技術的に不安のあるチェリストの演奏は、例外なく聴くに耐えない。ホルンとティンパニにも同様のことがいえる。さらに、リズムの完全な解決が必要なだけに、安定したオーケストラのアンサンブル能力と指揮者のリズム感も問われる。なかなか難しい曲だ。

こうした幾つものハードルをクリアした演奏として、まずは初演者ロストロポーヴィチのものが挙げられることに異論はないだろう。ロストロポーヴィチには6種類の録音が存在しているが、その中で最も優れているのがロストロポーヴィチ(Vc) & ロジデーストヴェンスキイ/モスクワPO(EMI)である。出だしから、物凄い気迫に圧倒される。全盛期のロストロポーヴィチによる充実しきった名演である。カデンツァの凄まじさは筆舌に尽くしがたい。終楽章はさすがに荒くなる部分も多いが、曲想とマッチしているため全く問題にならない。伴奏も理想的な音色と絶妙のリズム感でソロをもり立てている。終楽章コーダの複雑なリズムも、きちんとこなしている。ライヴの熱気が、正確でスケールの大きな高い技巧をより魅力あふれるものとしている。録音も良いとはいえないが、聴きづらいというほどではない。

ロストロポーヴィチと同じ傾向の演奏としては、シャホフスカヤ(Vc) & ロジデーストヴェンスキイ/モスクワ放送SO(BBC)クリーゲル(Vc) & ヴィット/ポーランド国立放送SO(NAXOS)が挙げられる。どちらもロストロポーヴィチの弟子だから、傾向が似ているのはある意味当然だともいえる。特にシャホフスカヤ盤はロストロポーヴィチ盤と極めてよく似た演奏。ロジデーストヴェンスキイによる伴奏は、ティンパニの強打を含めて全く同じといってよい。ソロは高音部に若干張りがないようにも感じられるが、高い技巧に支えられた全体を貫く緊張感が大変素晴らしい。クリーゲル盤の方はオーケストラがこじんまりとしているが、ソロは気迫に溢れた立派なもの。技術的にも非常に安定している。高血圧的演奏ではあるが、決して荒っぽくならないところに好感が持てる。複雑な様相を持ったこの曲を完璧に再現しきっているとまでは言えないが、魅力の一面をしっかりと聴かせてくれる。

グートマン(Vc) & コンドラーシン/モスクワ放送SO(Live Classics)のライヴ録音も素晴らしい。文字通り心技体の全てが最高の状態でこそなし得た名演。表面的な美感に溺れることなく、全身全霊を傾けて楽譜の底から音楽を掴み出しているような壮絶さに心を打たれる。コンドラーシンの伴奏も極めて凄絶。極めて大きなスケールの中でアクの強いロシアン・サウンドが全開になっているのが魅力的だが、それでいて勢いに任せているわけでなく、すみずみまで完璧にコントロールされている。録音の鮮度はやや落ちるものの、非常に優れた演奏である。

一方、第2楽章のような抒情的な部分を落ち着いて描き出しているタイプの演奏も興味深い。ノラス(Vc) & ラシライネン/ノルウェー放送O(Finlandia)は、実に丁寧で美しい演奏。すみずみまで目の行き届いた演奏で、この曲の持つ抒情性を明らかにしてくれる。骨太の男性的なノラスのソロの美質は、特に第2楽章で発揮されている。オーケストラはやや弱いが、このようなタイプの演奏では特に気にならない。モルク(Vc) & M.ヤーンソンス/ロンドンPO(Virgin)も、同じ北欧出身ということもあるのか、ノラス盤と似た傾向の演奏。こちらの方がやや洗練されている。ヤーンソンスの伴奏は、ツボを押えた手堅いもの。ティンパニの強打やホルンのアクの強い音色が生きている。

これら2つのタイプの折衷型ともいえるのが、マ(Vc) & オーマンディ/フィラデルフィアO(CBS/SONY)の演奏。ロシア風のアクの強い響きとは異なる、いわゆる“西側”のショスタコーヴィチ演奏だが、この曲の初録音を伴奏したオーマンディのツボを押えた伴奏にのって繰り広げられる、マのソロは大変素晴らしい。完璧な技術に基づいた全く破綻のない音楽には、ただただ圧倒されるばかりだ。ショスタコーヴィチの音楽では求められる推進力を適切に表現するためにとんでもない技巧を要求されることが多いのだが、マのソロには何の不満も残らない。加えて、マの特質である伸びやかな歌も心地好い。また、オーケストラに対する苛酷な要求にも、オーマンディ/フィラデルフィアOのコンビは十二分に応えている。第4楽章の活きの良さは、特筆すべき出来。

ロストロポーヴィチ盤
(EMI TOCE-9414)
シャホフスカヤ盤
(BBC 15656 91702)
クリーゲル盤
(Naxos 8.550813)
グートマン盤
(Live Classics LCL 202)
ノラス盤
(Finlandia 3984-21441-2)
モルク盤
(Virgin VC 5 45145 2)
マ盤
(CBS/SONY 22DC 5594)

チェロ協奏曲第2番ト短調 作品126

この曲が作曲された1966年は、ショスタコーヴィチの満60歳の記念の年であった。4月に病気療養のために滞在したクリミヤで完成したが、多忙なスケジュールのために5月末に心筋梗塞の発作を起こして二ヶ月の入院生活を送るなど、ショスタコーヴィチの健康状態は極めて悪いものだった。生誕60周年を記念したレニングラード音楽祭「白夜」は病院の中で迎えたが、誕生日である9月25日にモスクワ音楽院大ホールで行われたこの曲の初演には、かろうじて出席することができた。初演は、ロストロポーヴィチのソロとスヴェトラーノフ指揮のソヴィエト国立SOの演奏で行われた。この時の映像は、第3楽章の一部を1967年ソ連中央科学映画製作の音楽記録映画「ショスタコーヴィチ」の中で見ることができる。

この曲は、ショスタコーヴィチの後期作品特有の瞑想的で謎めいた雰囲気を持っている。さらに、第1楽章のカデンツァ(大太鼓の伴奏付き!)や第2楽章から第3楽章への繋ぎ、そして第3楽章のクライマックスなど、聴き手を吸い込んでしまうかのような巨大なエネルギーも内包した、確かに地味ではあるが決して忘れることのできない名曲である。第2楽章から出てくる、ショスタコーヴィチの母が夫を亡くしてから日銭稼ぎのために街頭でパン売りをした時に歌っていた「買ってくださいブーブリキ」の旋律(ショスタコーヴィチの母は、こんな仕事をするような人ではないという説もある)や、第3楽章で頻繁に出てくるムーソルグスキイの「ボリース・ゴドゥノーフ」前奏曲のモチーフ、第15交響曲とそっくりなエンディング(第4交響曲第2楽章からの引用)など、あたかも彼の人生を回顧するような趣きがあるが、彼の健康状態とも全く無関係とはいえないだろう。しかし、それにしては全曲を貫く強烈な精神の力に圧倒される。余談だが、ロストロポーヴィチの弁によると、この曲に関してはショスタコーヴィチにしては珍しく作曲途中の楽譜を見せてもらう機会があり、カデンツァの中にロストロポーヴィチの提案が反映されているという。

録音の数が少ないために選択肢は限られているが、立派な演奏が複数存在する。まずは初演者ロストロポーヴィチによる録音を聴かなければなるまい。ロストロポーヴィチ(Vc) & スヴェトラーノフ/ソヴィエト国立SO(EMI)による初演のライブ録音は、確かに全体に荒っぽいのだが、この巨大な曲と格闘している雰囲気が切実に伝わってくる。圧倒的な技巧でスコアが音化されているため、全ての音符に意味が見い出せる。一瞬たりとも緊張感がとぎれることのない集中力は、ライヴならではのものだろう。スヴェトラーノフは伴奏の域に留まっているが、十分にその役目を果たしているといえるだろう。オーケストラの音色も理想的である。一方、ロストロポーヴィチ(Vc) & 小澤/ボストンSO(DG)は、彼の唯一のスタジオ録音にふさわしい、丁寧で落ち着いた演奏である。曲を完全に手中におさめた安心感があり、曲の持つ深い情感が心に沁みる。小澤の伴奏もいつになく透徹した美しさがあり、リズムやアンサンブルの的確な処理とともに素晴らしい出来。

ロストロポーヴィチの圧倒的な気合いに対向できるチェリストはいないが、逆に落ち着いた響きでこの曲の謎めいた雰囲気を的確に表出している北欧の演奏家が2人いる。ノラス(Vc) & ラシライネン/ノルウェー放送O(Finlandia)は、非常に落ち着いた、それでいて軽くない美しさに満ちた演奏。どんな時でも荒くならずに余裕をもって楽器を鳴らすノラスの名演が光る。多彩な響きと内容を持ったこの曲の魅力を、淡々とした表情の中で十二分に描き出している。オーケストラは若干弱く、特に2楽章や3楽章のリズム感にもっと望みたいものもあるが、ソロがこれだけ素晴らしければ十分であろう。モルク(Vc) & M.ヤーンソンス/ロンドンPO(Virgin)の方は、ソロ、オーケストラ共に洗練された演奏。しっかりと弾き込まれている印象があり、安心して音楽に身を委ねることができる。我を忘れるような興奮とは無縁な演奏だが、非常に美しい。

オーケストラが異様な存在感を放っているのが、フェイギン(Vc) & M. ショスタコーヴィチ/モスクワ放送SO(Melodiya、LP)盤。とにかくオーケストラの華やかでアクの強い響きが凄い。ギラギラとメタリックな肌触りを持つ管楽器の音色が、この作品の持つ色彩感を余すところなく描き出している。爆発力だけでなく弱奏部での緊張感も立派で、オーケストラの仕上がりという点においては決定的な名演といえるだろう。とはいえ、独奏チェロもオーケストラに力負けしない骨太で男らしい音楽を奏でている。技術的にも丁寧な仕上がり。音楽的にはさすがにロストロポーヴィチよりもスケールが小さく感じられる部分もあるが、あえて比較しなければ気にはならない。この他の演奏については、特にソロが音の力に不足しているものが多く、曲の魅力が十分に伝わってこない。

ロストロポーヴィチ盤
(EMI TOCE-9414)
ロストロポーヴィチ盤
(DG 431 475-2)
ノラス盤
(Finlandia 3984-21441-2)
モルク盤
(Virgin VC 5 45145 2)
フェイギン盤
(Melodiya C10-13769-70,
LP)

ピアノ協奏曲第1番ハ短調 作品35

ショスタコーヴィチ最初の協奏曲作品。当時のショスタコーヴィチは一作毎に作風の異なる作品を生み出しており、どの曲にも創作意欲にあふれた若々しい感受性を聴き取ることができる。この曲は作品番号30番台の中では最も人気があり、実演で取り上げられる機会も多く、録音も多い。初演は、ショスタコーヴィチ自身のピアノ、シュティードリー指揮のレニングラード・フィルハーモニー交響楽団により1933年10月15日に行われた。

当初はトランペット協奏曲として構想されていたらしく、ピアノを加えて古典派以前の合奏協奏曲を思わせる編成としたところ、結局ピアノがトランペットの陰を薄くしてしまったという経緯があるらしい。したがって、ピアノの華やかな技巧に加え、鮮やかなトランペットの吹奏も聴きどころの一つである。この曲についてショスタコーヴィチは次のように語っている。「わたしはソヴェトの作曲家である。わたしは現代を、英雄的な、はつらつとした、きわめて快活な時代だと感じている。このことを自分の協奏曲で伝えたかったのである。」この曲がプラウダ批判(1936年)の前に作られていることを考えると、ここでショスタコーヴィチが述べていることはほぼ額面通りに捉えて問題ないであろう。また実際、この曲は“英雄的な、はつらつとした、きわめて快活な”曲である。

この曲に限らず、ショスタコーヴィチのピアノ曲は総じて自分自身、あるいは近親者が演奏することを念頭においているためか、どこか肩の力の抜けた一種独特な明るさを持っているものが多い。この曲も、ベートヴェンの「熱情」ソナタのパロディだという冒頭からドタバタした喜劇を思わせる音楽が繰り広げられる。加えて、随所に聴かれるどことなく毒を含んだ痛烈な響きが猛烈なスピード感の中で展開されるのも、ショスタコーヴィチ独特のものだ。

この曲の本質を捉えるには、まずD. ショスタコーヴィチ (Pf)、ヴォロフニク (Tp) & サモスード/モスクワPO(Melodiya)の演奏を聴いて欲しい。この作曲家自身によるライヴ盤は、何よりもテンポの変化が絶妙。これを聴けば楽譜に書いてあることが全て納得できる。作曲者自身のピアノが凄まじいまでの暴れっぷりで、オーケストラがほとんどついていけていない。ピアノも勢い余って乱れまくっているが、この勢いこそがこの曲の本質なのだろう。総合点としては高く評価できないが、この曲を語る上では絶対にはずせない演奏。これに比べると、D. ショスタコーヴィチ (Pf)、ヴァイラン (Tp) & クリュイタンス/フランス国立放送O(EMI)による後年のスタジオ録音は物足りない。

さて、ショスタコーヴィチの協奏曲作品の中では比較的人気があるせいか、この曲には録音が多く、有名なピアニストの演奏も結構ある。中では、グリーンベルグ (Pf)、ポポーフ (Tp) & ロジデーストヴェンスキイ/モスクワ放送SO(Triton)が最も素晴らしい。これほどまでに“協奏曲”としての魅力を引き出した演奏はない。リズムやテンポの動かし方に個性が見られるが、曲の本質を損なうことはなく、むしろ読譜の正確さに驚かされる。ロジデーストヴェンスキイの伴奏ともども、“ロシアの作曲家”ショスタコーヴィチの美質を余すところなく音化した、まさに驚嘆すべき名演。また、リスト (Pf)、ヴェセニク (Tp) & M. ショスタコーヴィチ/モスクワ放送SO(RCA)は、ショスタコーヴィチ自身の演奏に見られる猛烈な勢いをより高い精度で実現している名演。リスト自身の旧盤と比較すると、音楽の勢いや表現の深まりに驚かされる。マクシームの伴奏もオーケストラの機能を十分に生かした素晴らしいもの。特に終楽章の猛烈なスピード感は、まさにこの曲の本質をついている。カデンツァも壮絶。同じ路線では、キーシン (Pf)、カフェルニコフ (Tp) & スピヴァコーフ/モスクワ・ヴィルトゥオージ(Melodiya)のライヴ録音も聴き逃せない。これは、キーシン15歳時のライヴ録音。2年後のスタジオ録音とは全く異なり、凄まじい勢いに満ちた若々しくもスケールの大きな名演。ライヴにもかかわらず全くといって良いほどミスはなく、その完璧なテクニックにも脱帽。当時すでに技術的にも音楽的にも完成していたことがよく分かる。カフェルニコフのトランペットもどことなく色気を感じさせる吹き上げ方が魅力的で、キーシンのソロに華を添えている。弦楽合奏は鉄壁のアンサンブルに加え、重厚な響きでソロを万全に支えながらも強烈に主張してくるのが凄い。

一方ドイツ系の演奏者によるものは、また違った一種独特の格調高さを感じさせて興味深い。中でも最も優れているのが、コーツ (Pf)、クルク (Tp) & クライネルト/ベルリン放送PO(Berlin Classics)盤である。これは全体に中庸で適切なテンポ設定が素晴らしく、ロシアの音とは全く違うのだが、ソロもオーケストラも非常に美しい音がしている。特にトランペットは素晴らしい。スコアに忠実な演奏だが、それだけに留まっていない。落ち着いた大人の演奏だが、勢いにも欠けていない。全ての面で理想的な演奏といえるだろう。デュイス (Pf)、フリードリッヒ (Tp) & ケラー/ベルリン・ドイツSO(Capriccio)もよく似た傾向の演奏。また、ドイツ人演奏家ではないがグレスベック (Pf)、ヴェリメキ (Tp) & カターエフ/ミンスク室内O(Bluebell)が非常に知的で、落ち着いた演奏で面白い。若々しい情熱とか勢いとかいうような側面は慎重にコントロールされている。この演奏の素晴らしい点は、決して頭でっかちの解釈ではなく、音楽が実に心地好く自然に流れていくところにある。ソリストとオーケストラとの協力関係も理想的なもので、単に“きれいな演奏”とは一線を画している。真面目な人が微笑んでいるような印象を受ける演奏。

ピアニストの魅力が際立っているのは、アルゲリッチの新旧両盤。特に2回目の録音となるアルゲリッチ (Pf)、ナカリャコフ (Tp) & A. ヴェデールニコフ/スイス・イタリア語放送O(EMI)は、ルガーノで行なわれた「プロジェクト・アリゲリッチ」2006年(有名なルガーノ音楽祭とは別物)のライヴ録音で、極めて高い自由度を獲得した鮮烈な秀演である。速い楽章の奔放な音楽も立派だが、第2楽章の心に染み入るような味わいに、天才でなければ到達し得ない境地を聴くことができる。オーケストラはアルゲリッチに煽られつつも、よくつけている。ナカリャコフのトランペットも、非常に巧い…のだが、アルゲリッチの熱さに比べると徹底して冷ややかな感触を持っているのが特徴で、そのアンバランスさが奇妙な印象を残す。旧盤のアルゲリッチ (Pf)、タヴロン (Tp) & フェルバー/ハイルブロン・ヴェルテンベルク室内O(DG)も、絶妙なリズム感に乗った大胆な踏み込みや、情熱溢れるテンポ設定でアルゲリッチの魅力を堪能させてくれる。やや音色が荒れているものの、技術的には何の不満もない。ただし、ショスタコーヴィチの音楽とは違う。

D. ショスタコーヴィチ盤
(Victor VICC-2048)
D. ショスタコーヴィチ盤
(EMI CDC 7 54606 2)
グリーンベルグ盤
(Triton DMCC-24051)
リスト盤
(RCA 74321 29254 2)
キーシン盤
(Melodiya
MEL CD 10 00618)
コーツ盤
(edel 01842CCC)
デュイス盤
(Capriccio 10 575)
グレスベック盤
(Bluebell ABCD 039)
アルゲリッチ盤
(EMI 50999 5 04504 2 8)
アルゲリッチ盤
(DG 439 864-2)

ピアノ協奏曲第2番ヘ長調 作品102

この曲は、当時モスクワ音楽院に在学中であった作曲家の息子マクシームのために作られた。作曲当時の1957年は、スターリン死後の「雪どけ」と呼ばれる幾分開放的な社会情勢に加え、前年に生誕50周年を祝ってもらったショスタコーヴィチの社会的名声も確立された時期である。この曲には、そうしたショスタコーヴィチ自身の幸福な心情が反映されていると考えられるであろう。「スペインの歌」作品100、弦楽四重奏曲第6番作品101とつながる、簡潔で平穏な雰囲気を持った明るい曲である。この後、交響曲第11番作品103、チェロ協奏曲第1番作品107、弦楽四重奏曲第7番作品108、「風刺」作品109といった重厚で毒のある作品群が続くのも、またショスタコーヴィチの性格を顕著に反映していて面白い。

曲は古典的な3楽章形式をとっており、ごく型通りのつくりになっている。ピアノ協奏曲第1番作品35と異なって伴奏も普通の二管編成の管弦楽であり、ショスタコーヴィチ特有の早口を思わせるパッセージ以外は技術的にも比較的平易なものである。終楽章のハノンからの引用は有名だが、この他にもおそらく全曲を通して当時マクシームが練習していた曲が何らかの形で散りばめられているのだろう。こういう曲は、難しいことを考えずに素直な気持ちで楽しむべきだと思う。第2楽章の甘美な旋律など、“裏”の意味を無理矢理読み取ったところで鑑賞の役には全く立たない。

第1番に比べると実演等で取り上げられる機会は少ないようで、録音もあまり多くない。その中でまず最初に取り上げたいのがリスト(Pf) & M. ショスタコーヴィチ/モスクワ放送SO(RCA)の演奏である。これは、ソロ、オーケストラ共に尋常ならざる勢いに満ちた名演。作曲者自演盤の精度をさらに高めたような演奏で、技術面での安心感が表現の安定感につながっているところが素晴らしい。かといって退屈するような部分は皆無で、手に汗を握りながら最後まで聴き通してしまう。リストはショスタコーヴィチの協奏曲をレパートリーとして頻繁に取り上げていたらしく、確信に満ちた音楽の運びに感心させられる。マクシームの伴奏もこの曲を手中に収めた初演者(ただし独奏者として)の自信に満ちたもので、同じリストの旧盤よりも一層充実した演奏の実現に大きく貢献している。

他には、ソロ、オーケストラとも大柄な身ぶりで濃厚な音楽を奏でるバーンスタイン(Pf)/ニューヨークPO(CBS/SONY)の弾き振りによる演奏や、異様に充実した伴奏が魅力的なP. グルダ(Pf) & フェドセーエフ/モスクワ放送SO(Musica)も聴き逃せない。オルティス(Pf) & アシケナージ/ロイヤルPO(Decca)の天真爛漫で明るく開放的な美しい演奏も悪くはない。また、颯爽とした鮮やかさが際立つアムラン(Pf) & リットン/BBCスコティッシュSO(Hyperion)盤も非常に魅力的である。

最後に、やはり作曲家自身による演奏にもふれておかなければなるまい。2種類の録音が残されているが、その中ではD. ショスタコーヴィチ(Pf) & クリュイタンス/フランス国立放送O(EMI)が、軽やかに音楽が流れていく中で、どこか数学的な崇高さすら湛えている名演。全体に落ち着いた感じになっているのが好ましいが、クライマックスでの力強さにも不足していない。第2楽章は大変美しい。両端楽章ではミスタッチも多いが、尋常ならざる推進力を秘めたリズム感は、この作曲家の特徴をよく示している。これを聴くと、ショスタコーヴィチが並外れた知性と情熱を兼ね備えた音楽家だったことが分かる。

リスト盤
(RCA 74321 29254 2)
バーンスタイン盤
(CBS MPK 44850)
P. グルダ盤
(Musica 780013-2)
オルティス盤
(Decca 425 793-2)
アムラン盤
(Hyperion CDA67425)
D. ショスタコーヴィチ盤
(EMI CDC 7 54606 2)

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Last Modified 2008.05.14

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