「音楽ドキュメンタリー 戦争シンフォニー〜ショスタコーヴィチの反抗〜」を見て

1999年8月11日22時から、NHK・BS2で「戦争シンフォニー〜ショスタコーヴィチの反抗〜」と題する音楽ドキュメンタリーが放映された(放映時間約80分)。Rhombus(カナダ)とZDF(ドイツ)の共同制作によるこの番組を見た感想を、簡単にまとめてみた。


『証言』をベースにした“オーソドックスな”構成

番組の流れは以下の通り:第4交響曲をベースに1930年代後半のプラウダ批判、スターリンによる粛清の始まりを、主にショスタコーヴィチと関わりのあった人々のインタビューと当時の映像を通して描き出すところから始まる。いくつかの貴重な映像をはさみながら音楽は第5交響曲、第6交響曲と進んだところで、第二次世界大戦(大祖国戦争)におけるドイツ軍のレニングラード包囲の話題を、第7交響曲と絡めて取り上げる。その後、戦況の好転と共にスターリンへの個人崇拝がエスカレートする様が第8交響曲をバックに提示される。さらに、戦争の終結によってスターリンの独裁がより一層強まった様子が、第9交響曲と映画「ベルリン陥落」のエンディング・シーンを通して描かれ、「反形式主義的ラヨーク」の舞台映像をはさみながら1948年のジダーノフ批判当時の状況が語られる。そしてスターリンの死去時(1953年)の映像と共に、再び第4交響曲の終結部が流れて番組は終わる。

番組は、ヴァレリー・ゲルギエフの指揮による交響曲や舞台作品の演奏、ショスタコーヴィチと関わりのあった、あるいは同時代を生きた人々のインタビュー、当時の貴重な映像(ショスタコーヴィチが映っているものも多い)、そしてゲルギエフのインタビューから成っている。全編をつなぐ役割を果たしているのは、ヴォールコフ編『ショスタコーヴィチの証言』の主に第4章「非難と呪詛と恐怖の中で」からの引用である。

“体制との軋轢の中で創作活動を続けた”ショスタコーヴィチの姿を描くという点からすると、この構成は非常にオーソドックスなものである。ショスタコーヴィチについてある程度の知識を持っている人であれば、よく知られたエピソードが生身の人間の口から語られることに一種独特の迫力を感じ、ショスタコーヴィチの創作の背景についてあまり知らない人にとっては、驚くほど強烈な印象が与えられたにちがいない。映像と音楽との組み合わせもよく考えられており(第6交響曲や第8交響曲での爆撃とのシンクロはやり過ぎだと思うが)、実に丁寧な作りであったことは大変評価されよう。

しかし、『ショスタコーヴィチの証言』を無批判にベースとしていることには、甚だ疑問が残る。この本、実に衝撃的な事実が、何ともやりきれないほどの皮肉と悪意に満ちて語られる、大変面白い書物である。しかし、この本に対しては依然として真贋論争がなされていることを忘れてはならない。そして、“偽書”であるとの意見が優勢であることも。この論争で問題とされているのは、「この本の中で語られている言葉が本当にショスタコーヴィチ“自身”の言葉であるかどうか」という点である。決して、書物の内容自体が正しいのかどうかは問題とされていない。したがって、『証言』をベースに番組を構成することに異論はないが、『証言』からの引用を、あたかもショスタコーヴィチ自身が語っているかのように使うことには問題があるといえるだろう。

著名人ばかりではないインタビューや、貴重な映像の数々など、見所が多い出来だけに、上記の点は非常に残念だった。


興味を惹かれた映像

この番組の目玉は、何といっても貴重な映像の数々。冒頭の、1936年、街頭を歩きながらスターリンの肖像を一瞥するショスタコーヴィチの映像は、初めて見た。一体どういう脈絡で撮影されたものなのだろう?

僕が一番嬉しかったのは、映画「呼応計画」の一シーンが流れたこと。日本でも公開されたことがあったらしいが、全編ヴィデオ化することなどは可能なのだろうか?是非一度見てみたい。

第7交響曲の第1楽章をピアノで弾いている映像は、一部が1967年制作の伝記映画にも収録されていた。これはLDで入手することもできる。しかし、今回流れたものを見ると、少なくとも第1楽章は全て収録されているようだ。是非、通して見てみたいものだ。ちなみに、オーボエ奏者のマトゥスが初演時のことを回想するシーンでの映像も、1967年制作の伝記映画にも収録されていたものと同一。

ショスタコーヴィチが戦争中の集会で演説している映像や、戦時中の国威発揚パレードの様子は、「ヴィオラ・ソナタ」(セミョーン・アラノヴィチ、アレクサーンドル・ソクーロフ共同監督:レニングラード・ドキュメンタリー・フィルム・スタジオ1981年制作、1988年公開)にも収録されていた。この映画は日本でも何度か上映されており、日本ショスタコーヴィチ協会の総会でも上映されたことがある。

映画「ベルリン陥落」のラスト・シーンも貴重。これはかつて日本でヴィデオが発売されたことがあるので、今でもレンタル・ヴィデオ屋などで見つけることができる。この映画、ヒトラーのそっくりさんが出てきたり、敵国であった日本人を強烈に揶揄していたりして見所満載。しかも、見終わった後はなぜかストーリーも音楽も印象に残らず、ただただスターリンの偉大さだけが脳裏に刻み付けられる不思議な映画。一度ご覧になられることをお薦めする。

1948年の作曲家同盟大会でフレンニコフが演説している映像も、良かった。どのようにショスタコーヴィチらが“糾弾”されていたのか、その雰囲気がよく分かった。それにしても、こうした集会の映像がしっかりと残されているということは、この大会が色んな意味で重要なものだと認識されていた証拠と考えることもできるだろう。

その他、直接ショスタコーヴィチとは関係のない、人民裁判の様子や強制収容所の風景なども興味深かったが、中でもスターリン葬儀の映像が、印象的だった。スターリンの死体と人民の波。金日成の葬儀を彷彿とさせた。


「証人」達の発言を聞いて

登場する「証人」達は以下の通り(登場順):ドミートリィ・トルストイ(作曲家)、カレン・ハチャトゥリャーン(作曲家)、フローラ・リトヴィノヴァ、アブラム・ゴーゼンプッド(音楽学者)、マリアナ・サビーニナ(音楽学者)、マリヤ・コニスカヤ、ナターン・ペレリマン、ヴラディーミル・ルビン(作曲家)、イリヤ・ムーシン(指揮者)、ガリーナ・ショスタコーヴィチ(作曲家の娘)、ヴェニヤミン・バスネル(作曲家)、イサーク・グリークマン(元秘書)、クセニア・マトゥス(オーボエ奏者)、タチャーナ・ワシリエワ、ティーホン・フレンニコフ(作曲家)、アリサ・シェバーリナ。

ここで選択されている人々は、決して著名人ばかりではない。しかしながら、ショスタコーヴィチの伝記等を読むとどこかで見かける名前がほとんどである。この類いの番組では著名な亡命ロシア人音楽家ばかりが取り上げられる中で、この選択は非常に秀逸だといえるだろう。活字でしか知らない人の動く映像と生の声を聴くことは、何がしかの興奮を伴うものだ。

彼らの発言を聞いて、特に面白かったのは次の二点。

まず第一に、「戦争三部作」と呼ばれることもある第7〜9交響曲のキャラクターが図らずも浮彫りにされたこと。『証言』の中では第7交響曲は単なる愛国的な交響曲ではなく、すでにスターリン批判が込められているかのように記されていた。しかし、当時のドイツ軍によるレニングラード包囲という極限状況に対する人々の熱い想い、これはまさに想像を絶する。このことが包囲を経験し、生き延びた人々の口から直接語られるのを耳にすると、いかにショスタコーヴィチが天才で高潔な人格者であろうと、作曲当時に「ナチス・ドイツに限らず、ありとあらゆる全体主義に対する抗議」などということを考えられるはずがないと確信できる。そして、現在最も信頼できる資料である『グリークマン書簡集』の編集者でもあるイサーク・グリークマンが、ショスタコーヴィチ自身から初めてこの曲を聴かされた時「悲惨な戦争の最中に音楽どころじゃないかもしれないが、まあ、聴いてくれ」とショスタコーヴィチが言ったこと、そして第1楽章の展開部が「ファシストの侵攻を表わしていた」と感じたことなどを語る。この後で挿入される『証言』の引用が何とそらぞらしいことか!

一方、第8交響曲についてはグリークマン以外の人々からの証言が続く。ここで、国威発揚のパレード映像が挿入されていることからも分かるように、この曲が作曲された時期になると、ショスタコーヴィチも戦争というものを見つめ直す心の余裕が生まれてきたのだろう。しかしながら、数々の発言を聞く限り、この曲においてもスターリンをことさらに意識している様子は窺えない。この謎めいた悲劇的な作品に対する批判に絡んでスターリンの名が出てくるだけだ。そう、第8交響曲は、明らかに戦争を通して“人間”を見つめている曲なのだ。

それに対し、第9交響曲に対するグリークマンの発言が「三部作」を見事に締めくくる。「ショスタコーヴィチは戦勝を素直に喜ぶ気にはなれず、複雑な心境だった。スターリンがこの勝利に乗じて専制と弾圧を強めるのではないかと」。ここに至って初めて、スターリンを念頭においた創作が行われたのである。この一見軽い交響曲には数多くの謎が含まれており、それを一つ一つ解明することも面白いのだが、ここでは触れない。

重要なことは、第7交響曲の時点では戦況は非常に不利であり、ソ連軍が優勢に転じた時期に第8交響曲が、そして晴れて勝利を迎えた後に第9交響曲が作られたという事実である。今現在の我々は、後のフルシチョフ時代に行われたスターリン批判を知っている。だから、元々複雑な様相を呈しているショスタコーヴィチの作品を、いたずらに総括して解釈してしまいがちである。しかし、ショスタコーヴィチは常にリアルタイムで創作活動を続けていた。つまり「三部作」は、ショスタコーヴィチが自身の苛酷な戦争体験を“その時点において”音楽で綴った作品なのであり、決してスターリンの悪行を描くために構想されたものではないのだ。番組制作者の意図かどうか分からないが、ショスタコーヴィチと共にその時期を過したグリークマンの発言と、それ以外の“常識的な”発言とが並べられたことによって、これらの「三部作」が単に「ファシズムとスターリン専制に抗議する作品群」とまとめられることの危険性を痛感させられた。

次に興味深かったのは、1948年のジダーノフ批判を巡るフレンニコフの開き直り。「原稿は自分で書いたものではない」とか「自分はひどい恥ずかしがり屋だった」とか「ショスタコーヴィチが恐怖を感じていたという類いの話はどれも皆ひどい誇張。彼は明るく快活な人物だった」とか、何とも絶妙の“悪代官ぶり”を発揮していた。しかしそれに対して「狼は羊の恐怖を分からないものです」などとしたり顔で述べるルビンの方に、僕はむしろ不快感を覚える。いかなる理由があるにせよ、ルビンが当時のショスタコーヴィチを命をかけて支援したという話は聞いたことがない。己れの信念に誠実に生きたのは、むしろ“悪役”のフレンニコフの方なのではないだろうか?グリークマンは語る。「彼は非難されるべきだが、少なくとも弾圧には参加しなかった。」


ゲルギエフによる演奏

“音楽ドキュメンタリー”と題されているだけあって、番組中に流れる演奏は歴史的な映像を除いて、全て新たに収録されたものばかりである。交響曲第4〜9番はフルフェルサム・オランダ放送PO、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」よりボリースがカテリーナに殺害される場面はキーロフ歌劇場O他の演奏である。指揮はいずれもヴァレリー・ゲルギエフ。また、「反形式主義的ラヨーク」もゲルギエフ自らピアノを弾いている。どれも客席に人がいない状態での収録。

いずれの演奏も、このような形で聴く分には取り立てて不満を抱くようなものではなかった。唯一気に入らなかったのは、第4交響曲第1楽章展開部の解釈。ああいう楽譜にないデフォルメは、ショスタコには禁じ手だろう。音楽の流れを止めてしまう。まあ、あの後再現部まで続くのだったらともかく、そこで音楽は切れてしまうのであまり深く突っ込まないことにしよう。全体を通してゲルギエフ特有のしなやかで推進力に満ちた音楽作りの片鱗は伺えたが、それほど練習を積んだわけでもないのだろう。さすがに練り上げ不足の感は否めないのは、仕方がない。

それより気になったのは、ゲルギエフの指揮。ゲルギエフの指揮姿を正面から見たのは初めてだったが、彼はいつもあんな指揮をするのであろうか?観客(視聴者?)を意識した、何ともイヤらしい感じのナルシスティックな表情で、どことなく上滑りするような棒だった。確かに彼が演奏した第8交響曲のCD(オーケストラはキーロフ歌劇場O)もどこか上滑りしているような、魂の感じられない演奏だったが、こういう指揮ならさもありなんという感じだ。同じくカメラを意識していても、やはりカラヤンとは役者の格が違うようだ。

演奏風景は何とも悪趣味なショーマンシップにあふれていた。第4交響曲のリハーサル風景など皆神妙にゲルギエフの演説を聞いていたが、実際にあんな説明をありがたがって全員が聞くことなどないだろうし、大体オランダの団体がリハーサル中に私語もしないことなど考えられない。説明の後の演奏は、いくらなんでもやり過ぎ。金管奏者達が悪ノリしているとしか思えない。個人的には、こういう作り物っぽさが強烈に臭う演出は好きではない。第9交響曲はもっと酷い。確かに微笑ましい節があちこちに出てくるが、吹き終わった後のあの微笑みは何だ!しかし、バス・トロンボーン奏者がスターリンそっくりだったのには参った。スターリンに似た奏者がいる団体を選んで出演交渉をしたのではないかと勘繰ってしまった。第1楽章終了後のゲルギエフの深刻な表情には、ただただ苦笑いするだけ。

一方、「ラヨーク」の舞台情景は面白かった。スターリン、ジダーノフ、シェピーロフのお面をつけての歌唱もどことなくユーモラスだったが、何といっても司会者の演技が抱腹絶倒もの。“真正なレズギンカ”に「アッサ!」と合いの手を入れる時の嬉しそうな顔といったら!舞台は簡素なものだったが、さすがに本場だけあって作曲家同盟大会の雰囲気が抜群に再現されていた。これはいつか全部通して見てみたい。ただし、イェジニーツィン、ドヴォイキン共に楽譜とは少し違う変な節をつけて歌っていたのには感心しなかったが。

全体を通してみると、せっかく“音楽ドキュメンタリー”と題しているのだから、手兵のキーロフ歌劇場Oと真剣に演奏してもらいたかった、というのが率直な感想。余計な演出をするくらいであれば、ムラヴィーンスキイの映像でも流す方がどれだけマシか。ショスタコーヴィチの音楽を本当に理解し、心からの共感を持って演奏している姿からは、たとえその理解が正しかろうが間違っていようが、何がしかの強烈なメッセージが伝わってくるものだ。音楽の力を誰よりも信じていたショスタコーヴィチの番組なのに、制作者側は音楽の力をあまり信用していないように感じられたのは大変残念。


番組を通しての雑感

色々と細かいアラ探しばかりしてきたが、番組自体は短いながらもよくまとまった、なかなかの出来だったように思う。これは、対象とする時期を1930年代後半〜1950年代前半に絞り、音楽も交響曲を主体にして、あまり欲張らなかったことが良い方向に作用したのだろう。また、スターリン時代のことは資料も揃っている上に、映像が比較的残されていることも番組製作にとって有利に働いただろう。全体として、構成も内容も非常に模範的な仕上がりだと評価できる。

しかし、ショスタコーヴィチの音楽は、ひたすらスターリンの抑圧を強調するためにだけ用いられていたように感じられた。これは非常に不満。たとえば、強制収容所の映像に重ねられた第5交響曲。確かによく映像と合ってはいるのだが、このように具体的なイメージを“刷り込む”ことは、音楽鑑賞にとって非常に危険性を伴う。ショスタコーヴィチの創作活動を語る上で、ソ連という国の問題を避けて通るわけにはいかないが、国家体制との関係からのみ彼の創作を考えることは、また逆の意味で片手落ちだ。創作の背景にある状況と、残された作品の価値とを混同してはいけない。演奏シーンを増やすなどして、純粋に音楽作品としてショスタコーヴィチの交響曲を聴けるような構成にはできなかったものだろうか?そうすることで、音楽芸術の素晴らしさとともに、人間の精神の強さや偉大さを感じ取ることができるのではないだろうか?

上述のように音楽の取り扱いについては不満が残ったが、何といっても映像の持つ力には圧倒させられた。動き、しゃべるショスタコーヴィチを目にするだけで、僕なんかは感動してしまう。戦時中のアジ演説などは雰囲気満点で抜群。また、生前のショスタコーヴィチと交流があった人々の生の声にも、非常な説得力がある。当時を知っている人達の口から秘密警察の取り調べの話や、レニングラード包囲の苛酷な状況を聞くことは、活字で読むのとは全く違う迫力がある。中でも、ショスタコーヴィチの長女ガリーナのインタビューは最高だった。父親譲りの早口で、血のつながった人々の想い出を語る映像には、文字通り釘付けになった。登場する証人達が語っている言葉自体は特に目新しいものではない。しかし、画面から伝わってくる何ともいえない雰囲気。これこそが、この番組の最も評価に値するところだろう。

最後に一つだけ疑問。1953年生まれのゲルギエフに、当時の状況を語らせた意図は何だったのだろう?せっかく同時代を生きた人達の、説得力あるインタビューがあるというのに。何か、まるでゲルギエフの宣伝映画のような印象を受け、あまり気分が良くなかった。


【追記】(1999年10月26日)

1999年10月16日20時から、NHK・教育TVで“ETVカルチャースペシャル シリーズ スターリンと芸術家”という一連のシリーズの一つとして「楽譜に秘められた反逆〜ショスタコーヴィチ〜」という題で再放送された。本放送では全て字幕だったが、再放送では大半が吹き替えられていた。加えて、元々80分弱の番組が60分程度に短縮されていたため、若干のインタビューがカットされていたり、インタビューの順序が入れ替えたりされていたが、番組全体の構成自体はほぼ同じ。したがって感想は全く変わらないのだが、最後のテロップで、『証言』からの引用を読み上げたナレーターの役名が、なんと“ショスタコーヴィチ”となっていた!う〜ん…。でも、羨ましいなぁ。


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Last Modified 2006.05.18

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